イースターおめでとうございます。キリストの十字架の死と復活を共に味わい、祝うことができることを感謝します。大っぴらに礼拝の出来ないような場所にいらっしゃる方もいるでしょう。主の恵みをお祈りします。

私はミステリーや刑事ドラマが好きです。謎解きやパズルが昔から好きでそれもあってか推理ものは特に好きです。日本でしか視聴できないドラマや、手に入らない本などは日本に一時帰国中に見たり読んだりします。

しかし、クリスチャンライフは、ドラマや本のように一話完結というわけではないです。ミステリー、つまり疑問や謎が解決しないことがほとんどではないでしょうか。

普段は一話完結しない神様のストーリーですが、今週それがほんの少し内容が繋がったように思えたことがありました。それをシェアします。

先週の礼拝のことでした。牧師メッセージを終え、最後の祈りで「心をイエスに開いて受け入れましょう」と呼びかけていました。私は心の中で「誰かがそれに応答できますように」と祈っていました。すると、両手を前に伸ばして、その腕で誰かを支えなさい、というような思いがありました。まるでビーチボールを受けるような姿勢で両腕を前に出し祈りました。すると腕がどんどん重くなっていったのです。これは間違いなく誰かがサム牧師の招きの祈りを聞いて、信じるかどうか模索し、重い気持ちがどんどん重くなっているんだ、と感じました。その人がどうかイエスを受け入れ、心の重荷が下ろせますように、といつもより真剣に祈りました。すると腕がスッと軽くなりました。感謝です。誰かがイエスを受け入れたんだ、とわかりました。ミステリーですね。

次の水曜日のスタッフミーティングで、ヨハネの福音書17章を祈りつつシェアをしあいました。特に自分の心に留まったのは、イエスが父なる神に「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」と祈る言葉でした。(ヨハネ 17:3)

すると聖書の言葉が連鎖反応を頭の中で起こしました。

その日の朝に読んだ、「私の嘆く声で私の骨と皮はくっついてしまいました。」と悲嘆に暮れる詩篇の作者の言葉が浮かんできました。(詩篇 102:5)自分には当てはまらないので、なんでこの箇所を読んだのか、この言葉が頭にくっついたのか、ミステリーでした。

さらに、「私は生ける者の地で主のいつくしみを見る」と別の詩篇にあることが頭に浮かびました。(詩篇 27:13)なんでそれが、というミステリーですね。

ピンときたのはその時です。それはルカの福音書に実家のエマオにエルサレムから帰ってゆく二人の弟子のようです。彼らの記事では、彼らが復活したイエスに遭遇しますが、イエスだとは気づきませんでした。実家に着いて、イエスを招き入れ、そしてイエスがパンを祝福し裂いた時にようやく二人はそれがイエスだと気づいたのです。彼らは道すがらイエスと聖書を語っていたのにです。やっとピンときたのですね。

私も遅ればせながらやっとピンときました。日曜の救いのみわざは悲嘆にくれて、混乱して心が重かった方が永遠のいのちに預かり、今は死んでいたような地から生ける者の地にうつり、主のいつくしみを体験している、というストーリーだったんだとわかりました。

イエスは生きておられるのです。それが先週の日曜日の方の救いであり、また私たちの教会ではイースターに十数人が洗礼を受けますが彼らのストーリーの中でも生きている主が、もがきの人生の中から彼らに贖いを与えていることが歴然としているのです。イースターはその生きているイエスを褒めたたえ、共に喜ぶ日です。やっと、今一度(数日がかりでしたが)私に思い知らせてくださいました。

イースターがどうか主の恵みに溢れた、イエスのいのちで豊かに満ち、イエスの復活を喜び、神に栄光が帰される時となりますように!