「僕はこの世の終わりに関しての話を聞くのは嫌なんだ。」こう嘆いたのは、私が仕事で携わっていた十歳の男の子でした。その数秒前まで彼のそばで二人の人物が地球温暖化の話をしていたのが引き金だったようです。仕事中でもあった為、その場で多くは語れませんでしたが、私は「でもね、神様と仲良くなれたら世の終わりを怖がらなくても良くなるんだよ。」と話し、その後は数分間、教会や神様に関して二人で語り合っていた事があります。私は近頃、三年前のこの少年との会話を度々思い出します。ここ近年、カナダや世界中で毎年のように夏になると山火事が発生し、手に終えない程に環境に破壊を及ぼします。そうかと思うと、方々で都市や地域を襲う大雨と洪水も今年は多いように思うし、世界情勢も言うまでもありません。これらの現象を見る時、神様が人間界に送っておられるメッセージを思わされるのです。
世界平和や環境問題に興味を持って、自分のできる事をする事は大いに重要です。私たちにはその責任があるからです。人間は元々、動物たちや自然界を精一杯守り支配していくと言う使命を神様から与えられている訳ですから(*)。ところが、神様が送っておられるメッセージはそれ以上にもっと根本的で重大な事なのです。聖書には、世界が終わる時が確かに来る事を警告していて、人がその時に備えることの重大さを強調しています。
*創世記 1:26-28、詩篇 8:6
方々で起きる災害や犯罪、戦争などは人間の行動がもたらすものですが、少なくとも人はこのような状況の中で神の存在を意識するものではないでしょうか? この莫大な課題を追求し続けるのであれば、神様はその人をイエスキリストの救いへと導いて下さると約束されています。
ところで私自身はと言うと、あの少年に話した通り、クリスチャンと言う立場から恐れなくても良いことには確かにとても感謝な事です。しかし、遠くの山火事の煙が空の色をオレンジ色に変えたり太陽や月が赤くなっているのを見る時 、やはり自分の心も揺さぶられているのを感じます。主イエスと共に人生を歩むことを第一とする大切さを痛感させられるのです。しかし聖書を学ぶ中で慰めや励ましを大いに与えられ、恐れではなく希望と力を与えてくれる二つの事柄が浮き上がるのです。
一つは、来たる世界への希望です。イエス様がこの世を治めるために帰って来られる時、この地球の大自然も癒されるとされる預言があります。絶望的で人間の手に負えないような自然界の破壊や衰えも神様が修復して下さる世界が約束されています。元々神様が意図しておられた世界が主イエス直々の支配の中でとうとう実現されると言う約束です。そしてそのもっと向こうにも「新しい天と地」が約束されているので、後の世に関しては学べば学ぶほど希望が与えられるのです。
もう一つは、こんな悲しい状況の中でも、自分には「ここに生きる」と言う使命があると言う事です。自分が今この世に置かれているのは偶然ではなく、神様の御心であると言う自覚を持つようにと言う聖書の戒めです(*)。神様が与えて下さる使命を踏まえて、自分の人生をしっかりと生きる事を神様は要求してくださっていて、そうする時に生きる意味を一歩一歩の中で与えて下さるのです。 私たちが求める限り、神様に従って生きる力さえも与えて下さるのです。
*エステル 4:14、マタイ 25:14-30
神様は一人一人の心を揺さぶってくださっている中で、神を呼び求める事ができるように、そしてイエス様の再び来られる日に備えて、神を愛し神に従うように戒めてくださっています。「神様と仲良くなれたら」終わりの時代であっても救いと平安と生きがいが与えられるのです。
「見よ。わたしは世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
マタイ28:20
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