御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。
コロサイ書1:15‐20

The Son is the image of the invisible God, the firstborn over all creation. For in him all things were created: things in heaven and on earth, visible and invisible, whether thrones or powers or rulers or authorities; all things have been created through him and for him.  He is before all things, and in him all things hold together. And he is the head of the body, the church; he is the beginning and the firstborn from among the dead, so that in everything he might have the supremacy. For God was pleased to have all his fullness dwell in him, and through him to reconcile to himself all things, whether things on earth or things in heaven, by making peace through his blood, shed on the cross.
Colossians 1:15-20

 

今回は「スプレマシー」という単語について想い巡らせました。

私はアクション映画が好きです。中でもジェイソン・ボーンのシリーズはスリル満点で、原作もずっと読んできています。シリーズ2作目のタイトルが、”Borne Supremacy” (邦題:ボーン・スプレマシー)で、”Supremacy” という言葉は頻繁に日常的に使う言葉ではないので特別注目し、覚えた単語でした。さらに、聖書に同じ言葉がイエス様について書かれている箇所があるのでますます注目している言葉です。前掲の新約聖書コロサイ書の1章18節に出てきます。新改訳聖書では「第一のもの」と訳されています。

何にも勝って一番、という感じでしょうか。

私たちの通う教会では新年からコロサイ書からの説教シリーズが始まりました。新約聖書のたった4章の短い書簡ですが、4月中旬のイースターまでの3か月ほどに渡ってじっくりと学んで行きます。

そのキックオフのメッセージで牧師が紹介した信仰のサイクルをシェアします。説教牧師のパワーポイントを準備するのが私の職務の一つです。いつも会衆より一足お先に内容を知ることが出来るのはひそかなエクストラの恵みだと思っています。牧師はこんなサイクルの図を説教の中で使い、信仰のサイクル、だと説明しました。

「神様からのチャレンジ・導き」⇒「恐怖感」⇒「リスク・危険」⇒「服従」⇒「信頼」というサイクルです。

もちろんこのサイクルがあらゆる信仰の歩みを網羅するとは思いません。でも、自分にとって痛いところをつかれた感じがありました。自分は良く「恐怖感」「不安感」によって前進するのが遅くなったり、立ち止まってしまったりしてきたからです。

例えば、あなたの職場では常に変化が起きていて、不安になりませんか?人間関係ではどうでしょうか?進路や人生の上での大事な岐路にたった時、一歩踏み出すのは恐ろしいですよね。クリスチャンの信仰の歩みに、神様は安寧ではなく常にチャレンジ・乗り越える山を備えていらっしゃるように思います。

説教で、牧師は、最初に遭遇するのが恐れだと言います。やれやれ、そこから突いてくるか、と思いました。

私は性格上、この「恐れ」や「不安」を感じると自然に守りの姿勢に入ります。守りに入っていれば状況にコントロールがきくからです。昨年来色々な変化が職場で起きています。大きな会堂建設の計画も進行中です。色々な場面で、不安を書き立てるような状況に接すると、あるいは変化の可能性を感じると、心が亀のように首を引っ込めて、自分のコントロールを失わないように努力してしまうのです。でもこれだと前進は出来ませんし、神様の用意しているものすごい解決策や恵みを見ることが出来ません。

牧師は引き続き、コロサイ書の中核であるポイント、「イエスキリストは全てにあって十全であり、全てに勝るかしら、第一のお方である」これを信じていますか、と語りました。自分にとってイエス様は十分で全てに勝るナンバーワンなのか、と問われたのです。

導きと言うのは不思議なもので、神様はチャレンジを与えるのですが、同時に一緒に進む仲間たちを備えてくれます。何度となく職場の後輩たち(自分の息子たちの世代ですが)に励まされ、勇気づけられてきたことか、と思いこされました。信仰のサイクル図は平面上の図ですが、実際は家内、子供たち、周りの友人や仲間がいるので3Dなんです。それで共にサイクルを回り続けることが出来るんだ、とも感じました。そしてそのかしらがイエスキリストなんですね。

2019年もすでに暗雲立ち込めるニュースや昨年来の問題があるでしょう。しかし、どのような状況でもパウロと声を同じくして、イエスこそ自分の救い、人生、いのちにおいて十分であり、この世の全てに勝り第一のお方だと告白し続けるのです。