ルカ #70 23:17-26

ルカは福音書と使徒の働きを書いたのですが、登場人物が豊富でルカにだけ出てくる人たちも結構います。今日フォーカスをする二人、殺人者バラバもキレネ人シモンもその中に入るでしょう。ルカはこの二人の記事を通して、イエスの身に何が起きたか、どうして起きたのか、それが私たちに何の関係があるのかを語っています。

ルカ #69 23:1-16

夜が明けるのを待ち、ユダヤのリーダーたちは議会に連れ出しました。そこで正式に神の冒涜罪による死刑が確定したのです。刑はローマ支配下では執行できないので、総督ピラトにイエスを引き回し陳情します。

ルカ #68 22:54-71

聖書には信仰の厚い人々が多々出てきます。旧約聖書のアブラハム、ダビデ、新約聖書のペテロなどはその良い例でしょう。しかし、聖書は彼らが道を踏み外したり、自己中心に陥ったり、到底信仰深いとは言えない行動についても具体的に書いています。今回の箇所はペテロがイエスを三度否む場面です。想像力を働かせて読み進めましょう。

ルカ#67 22:39-53

イエスは「今はあなたがたの時、また、やみの支配の時である(口語訳)」と宣告します。イエスはこれから始まる究極の孤独、すなわち父なる神との交わりが断絶される闇の時に足を踏み入れました。それがミッションだったのです。イスラエルと全世界の救いのわざが今現実となります。

ルカ #66 22:24-38

イエスはこの過越の祭りとその晩餐をどれほど待ち望んでいたことでしょうか。自分の使命を全うする時がいよいよ迫っており、この時こそ苦楽を共にし、歩んできた弟子達と、意義深い過越の晩餐をしながら最後のメッセージを伝えたかったのです。しかし、弟子たちはイエスの語る重要な部分を見逃し、誰が裏切るのかと慌てふためいたり、イエスが身をもって示した仕えるしもべの姿を理解できず、誰が一番偉いのかと言う言い争いが起きてしまいました。イエスは孤独です。

ルカ #65 22:1-23

イエスの十字架の道はもうすぐそこまで来ています。イエスは弟子達にこれから自分に何が起こり、それがどういう意味を持つのか伝えようとします。イエスは学校のように黒板を使って理論を説明するのではなく、食事を共にすることで教え諭しました。行動を持って、実践によってイエスは語るのです。

ルカ #64 21:20-33

今回の箇所を読む時、おそらく、「?」と言う気持ちになるでしょう。イエスは一体何について語り、何について預言しているのか困惑させられるでしょう。パズルを解かねばならないような気持ちになります。都を囲む軍隊、吼えたける荒波、人の子が雲に乗ってやってくる、神の御国の到来などなどです。現代の私たちはどう理解して、何をするべきでしょうか?