「え? あのイエス様が?」と思わせるこの出来事は「宮清め」として知られています。 イスラエルには年に三度の大きな祭りが定められていました。 その中で、おそらく最も重視されていた祭りが「過ぎ越しの祭り」と言うもので、それはかつて神がモーセと言う人物を指導者に立て挙げ、イスラエル民族を彼らが奴隷生活を送っていたエジプトの地から救い出してくださった歴史を祝う祭りです。 エルサレム周辺に住む二十歳以上の男性たちは、健康が赦す限り、神殿での礼拝に出向く事を定められていましたが、それ以外の場所からでも志のある人達が参加するために各地から旅して来ていました。 出向く直前まではカペナウムと言う村で(おそらくペテロとアンデレの家に)滞在していたと(12節)イエス一行も、有志の参加者としてエルサレムに向かった訳です。

他の福音書と合わせて読むと、この時点ではイエスは既に様々な場所で癒しや奇跡を行われていて、イスラエル周辺で彼の名が広まっていた事12の弟子達が揃っていたとも考えられます。 そうであるなら尚の事、周囲の目はイエスにあった事でしょう。 この時、宮(神殿)に辿り着いて即におきた事は次の様に書かれています。

「そして、宮の中に、牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちが座っているのをご覧になり、細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、また、鳩を売る者に言われた。『それをここから持って行け。わたしの父の家を、商売の家としてはならない。』」  

(14-16節)

場所 - まず、この市場の様な状態になっていた場所ですが、そこは神を敬う異邦人たちが礼拝する為に設けられた広場であったと推測されています。 異邦人であってもイスラエルの神の御技を見たり聞いたりしてきた人達が神を崇める為にこの様な行事に参加する事が多くあったのです。 つまり、神の目に尊い異邦人の人達が集まろうとしている場所をこの「市場」が占領していて、彼らが礼拝できるような状態からかけ離れてしまっていたと想像で来ます。

「市場」で起きていた事 - この祭りの中で、子羊の他に、雄牛、ヤギ、鳩など、各家庭の収入に応じた生き物がいけにえとして捧げられていました。  いけにえとされる生き物は傷や奇形のないものと定められていたため、宮に居る祭司達より検証される必要がありました。しかし、このころの祭司達はかなり堕落していた為、生き物を検査していると見せかけてわざとこっそり傷をつけては代わりの動物を多額で買わせると言う事が起きていたと言い伝えられています。

そこには両替の問題もありました。 この祭りの参加者は、成人した国民一人ひとりが一定の金額を神殿におさめる税金をも払う事もしていました。 ただ、そのお金はイスラエルの通貨でしか受け入れられなかった為、他の国に住んでいたイスラエル人達は両替を必要とします。 それを両替人たちは上手にとり、やはり多額な換算レートで通貨を売りつけていたのです。 

ところで、イエスがその行動に走った時、大人数に対して一人であったにも関わらず、なぜ誰も彼を捕らえようとしなかったのでしょうか?その理由は二つほどあるようです。

輝き出る神の子としての権威

宮清めの行動に出たイエスを見て、周囲の人達はおそらく彼の権威と威厳を見せられ、圧倒されていたのではないでしょうか? そうでなければ、例え弟子達が付いていたにしても、あの大人数なら彼を取り押さえようと試みたに違いありません。 福音書の中には、イエスがその教えや奇跡(しるし)などを通して神の御子であられる権威を表されていた事を語る箇所が度々でてきます。 (マタイ7:29、マルコ1:22、マタイ21:23-27 等)全面的な印象として、福音書の中の宗教指導者たちの大半は、この不思議な「権威」を否定する為にあらゆる屁理屈を固めてイエスがキリストである可能性をもみ消している様にも見受けられます。

キリストを待っていなかった指導者達

捕らえられなかったもう一つの理由は、指導者達が自分達の非を承知していたかも知れません。神殿で起きていた事は明らかに神の意思に反したものだったのですが、神殿に居た祭司達はそれを咎めるどころか、返ってイエスの行動を咎めています。 なので、おそらくあの祭司達は、見て見ぬ振りをする事によって、商売人たちのお金儲けに協力して分け前を貰っていたとも考えられています。 悪い事と分かってフシを、祭司達のイエスへの言葉から読み取る事ができます。

18節「あなたがこの様なことをするからには...」= 「そんな偉そうな事をするのなら」に聞こえないでしょうか? つまりイエスが行った行動は正しい事だと認めているフシがありますね。 それどころか、律法や預言を細かに勉強してきていた彼らは旧約の時代から『キリストが来た時、神殿を清めに来られる』と言う事が預言されていた(マラキ書3章1-5等)のを知っていた事でしょう。なので、もう一歩突き詰めると、「あなたがまるで、キリストであるかの様に振舞うのであれば...」と言っていたのではないでしょうか? この様に、この頃の多くの宗教指導者達は、心からキリストが来られる事を待っていたかどころか、それを本当に信じていたかが疑われます。 逆に地位や収入に心を捕らわれ、本当にキリストが現れる事は彼らにとって、返って都合が悪い事だったのかも知れません

適用:

あの時、指導者たちにとって正しい選択は何だったでしょうか? へりくだって自分達のそれまでのやり方を反省する事と、あのナザレから来たイエスと言う人物が預言されてきたキリストで有り得る可能性だけでも考える事だったのではないでしょうか? 

あなたはイエスに関する真実を突き詰める事が自分にとって都合の悪い事に思えたりしますか? もしクリスチャンであるなら、神に従う次のもう一歩が都合の悪いものに感じる事がありますか? 突き詰めるか却下するか、従うか背を向けるか - だれでも与えられている知識や能力のそって、これらの選択に迫られているのではないでしょうか?