引き続き「イエスとは何者か?」というルカのテーマについて見ていきましょう。今回のアウトラインは次の通りです。

9:18-27    「イエスは何者か?」人々の意見において

  • 群衆、弟子達、ペテロ (18-21)
  • イエス:十字架と復活、弟子として従うことの意味 (22-27)

18 さて、イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちがいっしょにいた。イエスは彼らに尋ねて言われた。「群集はわたしのことをだれだと言っていますか。」19 彼らは、答えて言った。「バプテスマのヨハネだと言っています。ある者はエリヤだと言い、またほかの人々は、昔の預言者のひとりが生き返ったのだとも言っています。」20 イエスは、彼らに言われた。「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロが答えて言った。「神のキリストです。」21 するとイエスは、このことをだれにも話さないようにと、彼らを戒めて命じられた。22 そして言われた。「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらねばならないのです。」23 イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。24 自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。25 人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。26 もしだれでも、わたしとわたしのことばとを恥と思うなら、人の子も、自分と父と聖なる御使いとの栄光を帯びて来るときには、そのような人のことを恥とします。27 しかし、わたしは真実をあなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、神の国を見るまでは、決して死を味わわない者たちがいます。」

ルカ 9:18-27

この短い箇所にはイエスが何者であるか、という答え、そしてイエスの歩むべき救い主としての道がはっきりと書かれています。さらに、そのイエスに従うものにとっての生き様が書かれています。

この場面も想像力を働かせてみましょう。

1 場所:ピリポ・カイザリヤ

マタイの福音書16章では、「 さて、ピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々は人の子をだれだと言っていますか。」」と書かれており、このグループハドルはピリポ・カイザリアであったと分かります。そこは、イエスたちの本拠地ガリラヤ地方から40キロほど北に行った所にあり、マウント・ハルモンのふもとにある町です。

この場所はユダヤ人にとってはとんでもない場所です。バイブルティーチャーのRyan Vander Laanによると、「異教の信奉者には、ピリポ・カイザリヤにある洞窟は地下の世界へ続く門だと考えたのです。彼らが信奉する豊穣の神々がそこで冬の間を過ごしていると言うのです。それらの偽りの神々を讃えるために彼らは、様々な忌み嫌われる事を行っていたのです。To the pagan mind, the cave at Caesarea Philippi created a gate to the underworld, where fertility gods lived during the winter. They committed detestable acts to worship these false gods.」

弟子たちはそんな場所を訪問することすら忌み嫌っていたでしょう。まして、そこへとどまり、イエスの話を聞くのは心騒がせることであったと思います。


2 祈り

そんな異教の、下劣な行いがされている場所で、イエスは祈り、弟子たちに語るのです。まずイエスが祈っているところから始まります。鍵となる行動や発言の前には必ず祈りがあることを覚えます。

イエスが祈られた、福音書の中にイエスが祈られた、と記述されている箇所を挙げます。

ルカ3:21-22 (イエスのバプテスマ)
21 さて、民衆がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマをお受けになり、そして祈っておられると、天が開け、22 聖霊が、鳩のような形をして、自分の上に下られるのをご覧になった。また、天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」

ルカ 5:15-16(イエスの祈りのリズム)
15 しかし、イエスのうわさは、ますます広まり、多くの人の群れが、話を聞きに、また、病気を直してもらいに集まって来た。16 しかし、イエスご自身は、よく荒野に退いて祈っておられた。

マルコ 1:35-38(イエスの祈りのリズムと宣教への活力)
5 さて、イエスは朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。36 シモンとその仲間は、イエスを追って来て、37 彼を見つけ、「みんながあなたを捜しております」と言った。38 イエスは彼らに言われた。「さあ、近くの別の村里へ行こう。そこにも福音を知らせよう。わたしは、そのために出て来たのだから。」

ルカ6:12-13(12弟子を使徒として選ぶ前の徹夜祈祷)
12 このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。13 夜明けになって、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び、彼らに使徒という名をつけられた。

マタイ14:20-23(奇跡をされた後に一人祈られた)
20 人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れの余りを取り集めると、十二のかごにいっぱいあった。21 食べた者は、女と子どもを除いて、男五千人ほどであった。22 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸へ行かせ、その間に群集を帰してしまわれた。23 群集を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。

ルカ 9:18-21(イエスのアイデンティティーについての重要な対話)
18 さて、イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちがいっしょにいた。イエスは彼らに尋ねて言われた。「群集はわたしのことをだれだと言っていますか。」19 彼らは、答えて言った。「バプテスマのヨハネだと言っています。ある者はエリヤだと言い、またほかの人々は、昔の預言者のひとりが生き返ったのだとも言っています。」20 イエスは、彼らに言われた。「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロが答えて言った。「神のキリストです。」21 するとイエスは、このことをだれにも話さないようにと、彼らを戒めて命じられた。

ルカ 11:1(イエスの祈りのリズム)
1 さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。

ヨハネ 11:41-43(ラザロの復活の奇跡に際して)
41 そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。42 わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしにお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」43 そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」

ヨハネ 17章(最後の晩餐の最後に弟子達に対しての祈り) 

マタイ 26:36-38(十字架の直前)
6 それからイエスは弟子たちといっしょにゲツセマネという所に来て、彼らに言われた。「わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。」37 それから、ペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。38 そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」


3 「イエスは何者か?」世の中の声

前回の箇所で、ヘロデ・アンティパスはずらずらとイエスの正体のリストを挙げていました。世間のイエスの評判は弟子の耳にも良く入って来たでしょう。イエスに尋ねられて同じように答えたようです。現代ではどうでしょうか?現代人はイエスを一体どのように捉えているでしょうか。歴史上の人物?伝説の人物?外国の宗教の創始者?良い教えを多く残した人?

アルファ・コースのビデオで「ストリーター」という街頭インタビューの部分があります。そこでの受け答えはこんな風になっています。

問:「イエスって誰ですか?」

答:「イエスねぇ」
答:「えーっと」
答:「人物だよね。」
答:「イエスが存在したなんて信じられない。」
答:「神の御子。」
答:「どうしても答えろっていうなら、神だね。」
答:「(ふざけて)それって、チェルシー・サッカークラブでウインガーしてる(へスース)選手のことかな?」
答:「私にとって全部。いろいろかもしれないけど。私には彼が全てね。」
答:「イエスって誰?。。。本当言うと、分からないわ。」
答:「私は宗教的ってわけでもないし、多分救い主か何かだと思うわ。」
答:「彼はずっと昔に生きていた格好いいやつだったのよ。みんなにいいアドバイスとかあげてね。そしたら、あとは雪だるま式に(有名に)なったのよ。」


4 「イエスは何者か?」弟子達の声

ペテロは、「神のキリストです。」と答えました。そして、それはペテロが賢かったからでもなく、上手に答えたのでもありません。それは、「このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。」だとイエスは語りました。

イエスはペテロに対し続けて語りました。「あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天でも解かれています。」(マタイ16:18-19)

ハデス、という言葉は聞き慣れないですが、gotquestions.org にこのようにまとめられているのをウエブで見つけましたので参照まで。

「旧約聖書のヘブル語で、死後の世界を指した言葉は「よみ」です。この言葉は「死後の世界」とか「死んだ人々のたましいの場所」を意味しています。新約聖書のギリシャ語で地獄と訳されている言葉はハデスで、「死者の世界」と指しています。ゲヘナというギリシャ語の単語も地獄を指しています。この言葉はヘブル語のヒノムからきています。新約聖書の他の箇所ではよみとハデスは不信者のたましいが一時的に行く場所であり、そこで大いなる白い御座での裁きを待ちます。聖徒のたましいは死後神のみもと-天国、パラダイス、アブラハムのふところ-に行くのです(ルカ23:43; 2コリン5:8;ピリピ1:23)。」

GotQuestions ウエブから(リンク

イエスが、「ハデスの門」と言った時、弟子達は皆今いるピリポ・カイザリヤの洞穴のことを思ったでしょう。そこはまさしく地下の世界へ続く、と評判の洞窟でしたから。

イエスは、このハデス門は打ち勝たないと言うのです。古来「門」は守りの建造物です。ハデスの門、つまり地獄の門は福音の攻撃に打ち勝てない、とそう宣言したのです。福音は攻撃するのです。

すると弟子たちはすぐさま想像したでしょう。ローマの圧政に打ち勝つ救い主のことを。しかし、イエスは、続けて、イエスは「必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され」る、と語るのです。攻撃、と苦しみを受け殺される、と言うのがイエスのメッセージです。マタイの福音書の箇所で、ペテロはそんなイエスに対して、腹をたて、こんな風にリアクションしたのも理解出来るでしょう。

「ところが、ペテロはイエスをわきへ呼んでいさめました。「先生。とんでもないことです。あなたのようなお方に、そんなことが起こってなるものですか!」

マタイ16:22 リビングバイブル

ペテロたちが、「三日目によみがえらねばならないのです」と言うイエスの言葉を忘れたか聞き逃したか、それは定かではありませんが、後の十字架と復活の記事を読むとそのあたりの言葉についてはすっかり飛んでしまっているように思えます。十字架の死の後、弟子たちが離散し、隠れ、恐れていたことからも、復活のことは頭になかったようです。また、エマオに帰って行った弟子たちも暗い気持ちで、「この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。」と残念に思っていた様子が伺えます。復活の知らせを聞いたあとですらこんな調子でした。

ペテロが正確に「イエスは何者か?」と言う質問に答えましたが、必ずしも理解していなかったのです。

現代の私たちは聖書が与えられ、神の大きく広げたストーリー、天地創造、イスラエル、そして真のイスラエルであるイエスについて、つまり彼の生誕、生涯、十字架の死、復活、昇天、さらに聖霊の降臨と現在の教会を通しての神様の贖いのわざが続いている、ということを読み取る事が出来るでしょう。ですから、弟子たちとイエスの会話を見るとちょっともどかしく、なんで弟子たちは分かんないんだ、なんて思ったりします。

しかし、私たちが信仰の道を歩む時、私たちも弟子達のように、イエスの事が世の中の声にかき消されたり、自分の信仰告白が頭での理解にとどまり、心にたどり着かない、ということはしょっちゅうあるのではないでしょうか。「神様がこんなことをお許しになるはずがない!」と叫ぶのはペテロだけではありません。

イエスはペテロに、「天の父が示した」と教えます。ステージの舞台裏で働かれる神様のわざは舞台に立つ私たちには見えないですが、時折聖霊が「示して」くれる事があります。ヨハネの黙示録は「示す」書簡ですが、そこで神様はイエスを通して私たちに最終的に与えられるのはいのちである、とはっきり示してくれています。ハデスの門は打ち勝たないのです。


5 イエスに従うこと

私の知り合いにイエスにものすごく熱烈な方がいます。みんなそうあるべきですが、彼女の熱烈さは、本当に時と場所を選びません。ある時彼女とバスに乗り合わせた時のことです。会話が自然に神様のめぐみの体験についてのものになったのですが、とにかく大きな声でイエスの話をするのです。バスは混み合っていたのですが、そんなことはお構い無しでした。気恥ずかしい、と思ったのが正直なところです。

その方とイエスを比較するのはズレてるかも知れませんが、イエスもピリポ・カイザリヤで、異教徒に囲まれながら、「人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。」と宣言したのです。私が弟子だったら、「先生、大声出さなくても、私たちだけに聞こえるくらいの声でお話になったらどうでしょう」、なんて言ったかもしれません。「恥ずかしい」なんて思わないでしょうか。

するとイエスはお見通しで、弟子たちに、「もしだれでも、わたしとわたしのことばとを恥と思うなら、人の子も、自分と父と聖なる御使いとの栄光を帯びて来るときには、そのような人のことを恥とします。」と警告します。信仰を告白して生きる時、必ず恥ずかしい目にあわされると思います。

クリスチャンになりたての頃だったと思いますが、手書きのトラクトを作って(30年以上も前ですから)アメリカの大学のキャンパスで日本人を物色して配りました。「読んでみてください」と渡すと日本人の学生たちは礼儀正しくもらってくれますが、立ち去りぎわによく笑われたり、「何これ」みたいな馬鹿にされたようなことも言われました。あなたも、神様の証しを語ったら肩すかしをくらったり、軽くあしらわれたこともあるでしょう。でもイエスは、日々十字架を負ってついてきなさい、と励まします。

イエスは十字架の道へと進んで行く時が近づいていることをご存知でした。そして、弟子達を同じ十字架の道へと誘っているのです。イエスに従ってついて行く事が「豊かないのち」につながることをイエスほど良く理解しているお方はなかったからです。

「信仰の創始者であり、完成者でイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」

ヘブル書12:2