世の中では2月14日はバレンタインデーでしたね。教会暦では今年はその日が「灰の水曜日」として、イースターに向けて十字架を思いつつ過ごす40日間のレント(受難節)の始まりの日でした。教会によって額に十字の墨を塗るところもあるでしょう。私たちのCAチャーチでも去年から灰の水曜日の夜に特別集会を開いています。
この投稿が出るのが3月3日(日本時間で)ですので、レント真っ最中ですね。今回の想うことでは現在CAチャーチの説教シリーズの題材である、「十字架の上からのキリストの七つの言葉」をシェアしたいと思います。多くの教会ではイエスの十字架上からの七つの言葉をグッドフライデーのメッセージで使うところが多いそうです。キリストの十字架での受難を顧みる「聖金曜日」には相応しいですから。
CAチャーチのDavid牧師はシリーズ最初の説教でこう語りました。
「レントに七つの言葉を探るのは十字架を思い、そこに見られるイエスとイエスを通して伝わってくる神の愛を受けるためでもあります。十字架はこの世が、人類の心は捻じ曲がっていることを示します。私たちの心にこの誤りをなんとかしたいという願いを起こさせるでしょう。そして十字架を仰ぐとき、イエスこそが全ての解決を満たし、神が私たちを招き入れてくれていることを思い知るのです。」(筆者抄訳)
パウロのこの言葉を想い起こさせます。
十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。
「十字架からの最後の七つの言葉」
アメリカの牧師で数々の信仰書の筆者、フレミング・ラトリッジ (Fleming Rutledge) の同名の書籍に掲載されている順番に基づいてリストアップし、心に残るラトリッジ師の言葉を引用しました。
父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。
ほかにもふたりの犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために、引かれて行った。「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。(ルカ 23:32-34)
「イエスのこの祈りが届かないような事をしでかしたり、語ったり、そういう人になってしまうということはあり得ないのです。一切ありません。そして誰も、誰ひとりとしてイエスのこの祈りの届かない人はいないのです。」
“It means that there is nothing that you or I could ever do, or say, or be, that would put us beyond the reach of Jesus’ prayers. Nothing at all. And it also means that no one else, no one at all, is beyond that reach.”
Fleming Rutledge, “The Seven Last Words from the Cross”
まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。
ほかにもふたりの犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために、引かれて行った。 「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。… 十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」と言った。ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。(ルカ 23:32-33, 39-43)
「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」と犯罪人の一人はイエスに言いました。旧約聖書では神が「思いだす」ということは単に「考えたり」「前の事を思い起こす」のではない特別な意味を持ちます。単純に思い出すなら大したことはありません。神が「思いだす」とそれは私たちのことを考えてくれているだけではなく、神が救いの力をもって、私たちのために行動するのです。イエスの右にいた犯罪人は不思議にもその日他の誰も気づかなかったことに気づくことが出来るようにされたのでした。」
“Jesus, remember me when you come into your kingdom.” That is what the second thief said. In the Old Testament, when God “remembers,” it has a distinct meaning. It does not mean “to think about” or “to recall to mind.” That would not mean very much. When God “remembers,” he does not just think about us. He acts for us, with power to save. Somehow the crucified criminal on Jesus’ right was enabled to see something that day that no one else saw.”
ibid
女の方。そこに、あなたの息子がいます。そこに、あなたの母がいます。
兵士たちはこのようなことをしたが、イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロバの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます」と言われた。それからその弟子に、「そこに、あなたの母がいます」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。(ヨハネ 19:25-27)
「イエスはご自身の母親を弟子に与えることで、それまでは存在していなかった新しい関係を生み出したのです。その弟子とその女性は個人のことを指しているのではありません。彼らは象徴的に用いられています。聖霊にあって繋がりのある、教会における天からの家族の絆を代表するのです。それだからこそイエスはヨハネの福音書のこの箇所で、「女の方」と自分の母親を呼んでいるのです。血の通った関係を脇によけることでもっと広い意味の家族を創り出したのです。」
”In giving his mother to the disciple, he is causing a new relationship to come into existence that did not exist before. The disciple and the woman are not individual people here. They are symbolic: they represent the way that family ties are transcended in the church by the ties of the Spirit. That is why Jesus calls his mother “woman” in the Gospel of John. He is setting aside the blood relationship in order to create a much wider family.”
ibid
エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ
さて、十二時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続いた。そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 そばに立っていた幾人かが、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言った。すると、ひとりが走って行って、海綿に酸いぶどう酒を含ませ、それを葦の棒につけて、イエスに飲ませようとしながら言った。「エリヤがやって来て、彼を降ろすかどうか、私たちは見ることにしよう。」それから、イエスは大声をあげて息を引き取られた。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「この方はまことに神の子であった」と言った。 (マルコ 15:33-39, マタイ27:45-54)
「ご自身を無にされ(ピリピ人 2:7-8)、キリストは最も遠くの果てに存在する私たちと同胞となられたのです。神の敵としての全ての重さが彼にのしかかったのです。十字架の上で、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫んだのは不思議なことではありません。イエスの荒れ果てた姿は私たちと完全に同一化したことの直接の結果だったのです。」
”Emptying himself of his divinity (Phil. 2:7-8), Christ allied himself with us in our farthest extremity. The full weight of our enmity with God fell on him. No wonder he cried on the Cross, My God, my God, why hast thou forsaken me? His derelict condition was a direct result of his complete identification with us.”
ibid
わたしは渇く。
この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。そこには酸いぶどう酒のいっぱい入った入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。(ヨハネ 19:28-29)
「詩篇22篇にはこう書かれています。『私の力は、土器のかけらのように、かわききり、私の舌は、上あごにくっついています。あなたは私を死のちりの上に置かれます。』従って、ヨハネの福音書ではイエスが、「私は渇く」と主イエスが言う時、それは朽ちる体からの言葉ではなく、ご自身の使命を統べ治めているお方の言葉なのです。聖なる三位一体の神、御子が語っているのです。悲壮な状況の真っ只中ですら、イエスは神として進むべき運命を明らかにご存じなのです。ヨハネの福音書は最初から最後まで主をこのように描いて来ているのです。」
“Psalm 22 contains these words: “My strength is dried up like a potsherd [like baked clay], and my tongue cleaves to my jaws; thou dost lay me in the dust of death.” In John’s Gospel, therefore, when the Lord Jesus says “I thirst,” he is speaking in this case not from his very real mortal weakness, but from his sovereign control of his own mission. This is the Son of God speaking, the Second Person of the Blessed Trinity. Even in the midst of his helpless condition, he is manifestly aware of his divine destiny. This is the way that John has portrayed the Lord throughout his narrative, from beginning to end.”
ibid
完了した。
そこには酸いぶどう酒のいっぱい入った入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した」と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。(ヨハネ 19:29-30)
「『完了した』という言葉は「もうおしまいだ。最後だ。もうだめだ。」という意味ではありません。「完結した、完全となった」という意味です。… イエスは打ちひしがれたように見えたまさにその瞬間こそイエスが事実勝利者となった、と発言しているのです。… 私たちには神の賜物である赦し、和解、復活や永遠のいのちを神から貰い受ける権利などないのです。これらの神からの賜物は私たちの自力ではどう頑張っても勝ち取れるものではありません。しかし、それはすでに私たちのためになされたのです。キリストがご自身を投げ出し、無償で与えられているのです。」
“It is finished.” … does not mean “It’s over; this is the end; I’m done for.” It means “It is completed; it is perfected.” … Jesus is announcing that, at the precise moment when he seems to be defeated, he is actually the conqueror. … We cannot earn God’s gifts of forgiveness, reconciliation, resurrection, and eternal life. These divine gifts are beyond our capacity to earn through any means we could possibly devise. It has already been done for us. It is freely accomplished through the self-giving of Christ.”
ibid
父よ。わが霊を御手にゆだねます。
そのときすでに十二時ごろになっていたが、全地が暗くなって、三時まで続いた。太陽が光を失っていた。また、神殿の幕は真っ二つに裂けた。イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。(ルカ 23:44-46)
「そして十字架上からのこの最後の言葉では、ルカは私たちに死に方、そして生き方を教えています。信仰によってイエスの死と一体とされている私たちは死後のいのちにも一体とされているのです。イエスの痛みの中に私たちの贖いを見出します。イエスが捨てられたゆえに私たちは受け入れられているのです。イエスが打ちひしがれているのでそこに私たちの救いがあります。そして私たちが疑いや混乱の中で生きている時にも救い主である主イエスの言葉にある通り、「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」と私たちも宣言出来るのです。」
“So in this last saying from the Cross, Luke is teaching us how to die and how to live. Because we, by faith, are assimilated to Christ in his death, we also are assimilated to him in his life beyond death. In his suffering we find our redemption. In his abandonment we find our acceptance. In his dereliction we find our salvation. And at last we are able to say even in the midst of doubt and perplexity, Father, into thy hands I commend my spirit, even as the Lord and Savior Jesus Christ said.
ibid