「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか」詩篇42篇1~2節

‘As a deer pants for flowing streams, so pants my soul for you, O God. My soul thirsts for God, for the living God. When shall I come and appear before God?’ Psalms 42:1-2

もう結構昔からある曲になってしまいましたが、”As the Deer (日本語版:鹿のように” という賛美の曲があります。旋律がきれいです。詩篇42篇をベースにして創られた曲です。日本語版はこう言う出だしです。

「谷川の流れを慕う鹿のように 主よわがたましいあなたを慕う」

先日同じ詩篇の箇所からデボーションしていたのですが、ティム・ケラー先生の次の一言にどっきりしました。

“Human beings need the sense of God’s presence and love as much as the body pants after water (verse 1).” Tim Keller “The Songs of Jesus”

「人というものは、神が臨在し、自分を愛してくれていると感じたい、というニーズを持っている。それはあたかも体が水分を渇望するのと同じである。」

あれれ、と思いました。お恥ずかしい限りですが、美しい旋律で覚えた1節と2節が、残りの詩篇の節とは全く独立して頭に残っていたのです。私は漠然と鹿が楽しそうに野原を散歩していて、美しい谷川のほとりで水を飲んでいる、っていう感じのイメージをずっと心に描いていました。

とこらが、とたんに、この詩篇と次の43篇は、神様に対する強い渇きと切望、神様が今見えなくなって全身全霊で求めている、そういう激しいトーンの歌だったんだ、と気づいた次第です。

42篇と43篇には同じ言葉の節が出てきます。

「わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。なぜ、私の前で思い乱れているのか。(42篇11節、及び43篇5節)」

神様が見えなくなって、魂がうなだれ、乱れているのが枯渇している状態です。そんな時、詩篇作者は、「谷川の流れを慕う鹿のように」と歌ったのです。野原や山を楽しく駆け巡る鹿の姿ではなく、砂漠の地で生きのびるために精一杯水を探し求める、それがこの姿だったんです。「谷川」という単語も砂漠にある、雨がふったら流れるようなせせらぎ、という意味を持つそうです。

詩篇42篇と43篇はこう結んでいます。

「神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の顔の救い、私の神を。 」