ルカ 20:27-47

27 ところが、復活があることを否定するサドカイ人のある者たちが、イエスのところに来て、質問して、28 こう言った。「先生。モーセは私たちのためにこう書いています。『もしある人の兄が妻をめとって死に、しかも子がなかった場合は、その弟はその女を妻にして、兄のために子をもうけなければならない。』29 ところで、七人の兄弟がいました。長男は妻をめとりましたが、子どもがなくて死にました。30 次男も、31 三男もその女をめとり、七人とも同じようにして、子どもを残さずに死にました。32 あとで、その女も死にました。33 すると復活の際、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻としたのですが。」

34 イエスは彼らに言われた。「この世の子らは、めとったり、とついだりするが、35 次の世に入るのにふさわしく、死人の中から復活するのにふさわしい。と認められる人たちは、めとることも、とつぐこともありません。36 彼らはもう死ぬことができないからです。彼らは御使いのようであり、また、復活の子として神の子どもだからです。37 それに、死人がよみがえることについては、モーセも柴の個所で、主を、『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』と呼んで、このことを示しました。38 神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。というのは、神に対しては、みなが生きているからです。」

39 律法学者のうちのある者たちが答えて、「先生。りっぱなお答えです」と言った。40 彼らはもうそれ以上何も質問する勇気がなかった。

41 すると、イエスが彼らに言われた。「どうして人々は、キリストをダビデの子と言うのですか 42 ダビデ自身が詩篇の中でこう言っています。『主は私の主に言われた。43 「わたしが、あなたの敵をあなたの足台とする時まで、わたしの右の座に着いていなさい。」』44 こういうわけで、ダビデがキリストを主と呼んでいるのに、どうしてキリストがダビデの子でしょう。」

45 また、民衆がみな耳を傾けているときに、イエスは弟子たちにこう言われた。46 「律法学者たちには気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ったり、広場であいさつされたりすることが好きで、また会堂の上席や宴会の上座が好きです。47 また、やもめの家を食いつぶし、見えを飾るために長い祈りをします。こういう人たちは人一倍きびしい罰を受けるのです。」

ルカ 21:1-4

1 さてイエスが、目を上げてご覧になると、金持ちが献金箱に献金を投げ入れていた。2 また、ある貧しいやもめが、そこにレプタ銅貨二つを投げ入れているのをご覧になった。3 それでイエスは言われた。「わたしは真実をあなたがたに告げます。この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました。4 みなは、あり余る中から献金を投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです。」

復活 (v27-40)

今度はサドカイ人がイエスに挑戦してきます。あわよくばイエスの言葉尻を捉えて糾弾しようと思っていたのです。 サドカイ人はモーセの5書だけを権威ある書としており、死者のよみがえりも御使もその存在を否定していました。死後のいのちなど無いと言っていたのです。

そこでなんだかややこしい例をあげてイエスに質問しました。

イエスは二つの応答をします。一つ目は「復活」のいのちは現在生きているようないのちでは無いと語ります。死はもう存在しないのです。家系をつなぐこともありません。復活したもの達は御使いになるわけではありませんが、御使たちのように不死のからだを持つのです。

二つ目はサドカイたちが信じていると言っているモーセの書から引用して答えています。出エジプト記 3:6の記事で、神様がご自身を「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」 と表しているところがあります。神は死んだものたちの神ではなく、神にとって生きている者達の神、すなわちアブラハムも、イサクも、ヤコブも神にとっては生きている存在だとするなら、当然死後の復活も現実のものであると語るのです。もちろん彼らがすでに体のよみがえりを受けた訳ではありませんが、神にとって生きた存在で、後にくる復活の日を待ち受けているのです。

律法学者たちはただただ、「先生。りっぱなお答えです」と言うばかりでした。サドカイ人のはんのうは聖書には書かれていませんが、何も反論できなかったことでしょう。

ダビデの子(v41-44)

20章のおさらいをしてみましょう。

  • イエスの権威 (20:1-8)
  • 神の子として現れた (20:9-15)
  • 捨てられていた石が礎の石となった (20:16-19)
  • カイザル (20:20-26)
  • よみがえり (20:27-40)
  • ダビデの家系でありながらダビデの主である (20:41-44)

宮に入ったイエスに様々な疑問や罠が仕向けられました。それらを編み込むようにしてイエスは語り続けます。ルカがまとめているこれらの記事は偶然にこのように重なったのではありません。これらの記事はイエスの福音の物語を取りまとめていると言えます。

「イエスは預言者たちの預言の通りメシア、救い主として油を注がれました。ガリラヤ地方で福音を伝え、イスラエルに立ち返りを求めていました。そしてエルサレムにおいて最後の悔い改めのメッセージを伝えました。イエスは拒絶され、ローマに引き渡され処刑されたのですが、三日目によみがえられました。彼を信じ従うものは、イエスがダビデの家系に生まれたと分かるだけでなく、メシアとしてダビデにとっても主なる方であると語るのです。」

“Jesus emerges from John’s prophetic movement; he is anointed as  Messiah. He comes to Israel, to the towns of Galilee, and ultimately to Jerusalem, with a message of warning and pleading, the final message from the vineyard  owner. They reject him, thereby calling down judgment on themselves. He is handed over to Caesar’s men for execution; and on the third day he is raised. As a result, his followers discover that he is not only David’s son, the Messiah (as they  had already come to believe); he is also David’s Lord. This sequence can hardly be accidental.”

N. T. Wright, Luke for Everyone

キリストがダビデの家系の生まれなのに、どうして彼がダビデの主になれるのか、と疑問があったようです。神であり人である、という概念は普通に解決しようとすると大抵間違った考えに導かれてしまいます。例えば、人になるために、神がある時点で神では無くなったり、神の力を大幅に減らしたのでは、などという誤った考えです。

当時のユダヤ人たちが考えていた「メシア」像と本当の「メシア」の違いが挙げられるでしょう。ユダヤ人たちはメシアは他の王たちと同じのような人間の王様を想像しており、その王様が自分たちの解放のために立ち上がり、宮を修復し、公正を持って国を治めると思い描いていたのです。

イエスは詩篇110篇から引用して語りました。当然その場にいた律法学者たちはその詩篇を思い起こしたことでしょう。メシアを語る詩篇ですから。しかし、詩篇や預言の書にこれほどまでにメシアが現れるのは真に神ご自身が現れる、と言うことには気づかなかったのです。

うわべだけの信仰心 (vv45-47, 21:1-4)

イエスはこれまで律法学者を中心としたユダヤ人のリーダーたちに向かって話していたように思います。次の箇所は弟子達に対して話しかけています。もちろん周りのみな全てに聞こえていたことでしょう。

いきなり、「律法学者に気をつけなさい」と宣言します。「あいつらのようになっちゃだめだ」と言っているように私には聞こえます。そこにいた律法学者たちのしかめ面が目に浮かびませんか。

これまで何度となくイエスは神の御国について語って来ました。そして前掲の箇所ではメシアは神の権威の御座を持つお方だと語りました。人が作り上げた基準で神を測ることは不可能です。

律法学者たちは自分に都合の良い目盛りを使ってその宗教的な良し悪しを決めていたのです。うわべで信仰心の度合いをとりつくろっていたのです。イエスがそれを見抜き、すなわち、神がそれを見抜き、そのような信仰心は「罰を受けます」と厳しく裁きを与えたのです。

神の測りは律法学者の律法主義的な測りではなく、その時全財産をはたいて献金したやもめの信仰心をたたえる測りです。ここでルカの福音書のテーマが見受けられます。それは値するはずの、理解しているはずのもの達の目は暗いままイエスを見出せず、値するはずのない、分かるはずのない、周遍に追いやられていたもの達がイエスに出会う信仰を持っているというテーマです。