信仰生活がマンネリ化して、なんか喜びが無くなった、なんて思えることがありませんか?信仰を持って歩もうとすると、大きな壁や小さな妨げがいろいろ起きて、本当に信仰を持つことに価値があるんだろうか、なんて悩んでいませんか?それはもしかしたら、あなたが、「シナイ山」に足を運んでいたり、止まっているのではないでしょうか。
ヘブル人への手紙12章18〜29節では、二つの山、シナイ山とシオンの山から語られています。この書簡が書かれた当時の悩めるクリスチャンたちに対して励ましの言葉であると同時に、ここからのメッセージは今日の私たち、キリストに従い進みたい、と願う者にも語ってくれます。ここから想わされたことをシェアします。
まずバックグラウンドですが、ヘブル書はクリスチャンに向けて書かれた書です。12章は11章に出てくる「信仰の先駆者たち」のリストのすぐ後にあります。彼らのように信仰を貫いたものたちが雲のようにあなた方を取り囲んでいるのだから、信仰の創始者であり完成者であるイエスキリストから目を離さず、たゆまず信仰の道を歩みましょう、と12章は切り出します。そして18節以降が二つの山を紐解いています。
どちらの山もユダヤ系のクリスチャンにはすぐピンと来る山でしょう。シナイ山はモーセが十戒を受けた山で、神の聖なる山です。シオンは、聖書の中では神の臨済する、神が民と喜びを共にする素晴らしい聖地として描かれています。たびたび、エルサレムの町をさすこともあります。
シナイ山(12:18〜21)
18 あなたがたは、手でさわれる山、燃える火、黒雲、暗やみ、あらし、19 ラッパの響き、ことばのとどろきに近づいているのではありません。このとどろきは、これを聞いた者たちが、それ以上一言も加えてもらいたくないと願ったものです。20 彼らは、「たとい、獣でも、山に触れるものは石で打ち殺されなければならない」というその命令に耐えることができなかったのです。21 また、その光景があまり恐ろしかったので、モーセは、「私は恐れて、震える」と言いました。
ヘブル書12:18-21
ここから得られるイメージは、怖い、大きい音、神は近付き難い、聖い、といったところでしょうか。神と人との仲介メッセンジャーだったモーセですら、恐れて震えたのですから。
ユダヤ系のクリスチャンにとって、イエスへの信仰を持ち歩む時、11章にでて来るような迫害は現実にあったことでしょう。本当に信仰はそんなひどい目に会うほど価値のあることだろうか、と悩んだはずです。明日は何が自分を待ち受けているか分からない、でもイエスを信頼して前に向かって進め、とヘブル書に励まされても、つい、自分がよく知っている律法を守り、律法の教えを行動にする方が、自分の勝手知ったることで、心が落ち着いたりしたのではないでしょうか?
教会のある方と、家庭内暴力を受けている被害者のかたが往々にして一度逃げ出せた虐待の人間関係に、なぜか戻ってしまっていくのはなぜだろう、と話したことがあります。側から見たら、虐待される関係から出て、安心して生活出来るはずなのに、なぜ元のサヤに戻るのか、と疑問視します。でも私が教わったのは、新しい生活、には、これから将来を一人で生きねばならない、全てが今までと違い、先が見えない、不安になる、という事が重荷としてのしかかって、結局、今までなんだかんだと自分にわかっている生活に戻る方が気楽だ、と思うことがある、というのです。
私にはどこまでそうなのかは分かりません。でも信仰生活の上で、似たような考えを私は持つことがあるなぁと感じました。それは、信仰というのは神様を信頼し、自分の意思を神様に委ねて、聖霊に導かれて生きることです。つまり、毎日毎日、いや一分一秒がこれからどうなるか、さっぱり分からないアドベンチャーの人生なんです。
それよりは、自分のわかる範囲の、自分が出来る、今まで多少なりともうまくいっていた生き方に戻る方がなんとなく居心地よく感じるからです。
そして、恐ろしい神様にあんまり近づかないようにして、自分の行い、他人との比較をしながら生きていく、そんな生き方に甘んじてしまうのです。それは、まさしく、シナイ山の生き方です。
そこに欠けているのはイエス・キリストにある喜び、充足感、過去・現在・未来の信仰の友たちとの交わり、励まし、そして人生の目的です。
これは、現代の信仰生活にも大いに当てはまることです。気をつけていないと、ハッと気付いたら昔の神なき生活を送っている、なんてこともあります。また、苦労が増えるとこれまで自分の力で解決してきた時のことを思い出して、それに頼ったり、やっぱりキリストはもういいや、なんてあきらめてしまいかねませんから。
シオンの山(12:22〜24)
22 しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。23 また、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者である神、全うされた義人たちの霊、24 さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血に近づいています。
ヘブル書12:22-24
シオンの山では大きなパーティーが行われています。そこに向かって私たちは信仰の歩みを進めている、とヘブル書は教えています。だから、シオンの山に戻るのではなく、前をみて、イエスから目を離さないで、イエスが仲介してくれている、新しい契約に基づくシオンに向かおう、と励ましています。
よく冗談まじりに、「イエス・キリスト」って答えれば日曜学校・教会学校ではいつも正解!って言われるよね、などと言うことがありますが、実は、まさしくその通りで、イエス・キリストが全ての答えになるのです。イエスのもたらす新しい契約、恵みの愛の契約の故に、私たちは辛い状況でも、迫害の中でも、マンネリに悩み闘う時にもイエスから目を離さないで歩めるのです。
Eugene PetersonのThe Message 版では、この箇所はこう訳されています。私の自己流の日本語訳をつけてみました。
No, that’s not your experience at all. You’ve come to Mount Zion, the city where the living God resides. The invisible Jerusalem is populated by throngs of festive angels and Christian citizens. It is the city where God is Judge, with judgments that make us just. You’ve come to Jesus, who presents us with a new covenant, a fresh charter from God. He is the Mediator of this covenant. The murder of Jesus, unlike Abel’s—a homicide that cried out for vengeance—became a proclamation of grace.
ヘブル書12:22-24
いや、あなたの体験しているのはそう(シナイ山)ではありません。シオンの山に来ているのですから。そこは生ける神が臨在している都です。この目に見えないエルサレムには喜びに溢れた御使たちや天国のクリスチャンたちが住んでいるのです。神様が全てを裁かれるお方で、私たちのことも義となして下さるのです。イエスのもとに来ているのです。イエスは私たちに新しい契約をお与えになっています。神様からの新しい人生のページと言えます。イエスが殺されたしことは、アベルが殺された時に報復が叫び求められたのとは違い、恵みの宣告となっているのです。
聞く耳を持とう(12:25〜29)
25 語っておられる方を拒まないように注意しなさい。なぜなら、地上において、警告を与えた方を拒んだ彼らが処罰を免れることができなかったとすれば、まして天から語っておられる方に背を向ける私たちが、処罰を免れることができないのは当然ではありませんか。
ヘブル書12:25-29
26 あのときは、その声が地を揺り動かしましたが、このたびは約束をもって、こう言われます。「わたしは、もう一度、地だけではなく、天も揺り動かす。」27 この「もう一度」ということばは、決して揺り動かされることのないものが残るために、すべて造られた、揺り動かされるものが取り除かれることを示しています。28 こういうわけで、私たちは揺り動かされない御国を受けているのですから、感謝しようではありませんか。こうして私たちは、慎みと恐れとをもって、神に喜ばれるように奉仕をすることができるのです。29 私たちの神は焼き尽くす火です。
ヘブル書の一章に神は御子を通して語っておられる、と書いてあります。イエス・キリストの語る声を聞き逃したり、拒んだりしないように、とヘブル書は警告します。神様は聖霊によって私たちにどちらの山?と尋ねているようです。
あなたの信仰生活において、イエスは今どこにいるでしょうか?いや、正しくは、今私はどちらの山にいるでしょうか?どちらの山に向かって歩みを進めているでしょうか?