一枚の用紙が配られ、「ここに、あなたのアイデンティティーとなる要素を全て書いてください。」と言う指示が、とあるセミナーで講師をしていた人物から出されました。参加者の中にいたある女性は、自身の生い立ちがとても複雑なものであったがため、一枚の紙に「自分と言う人間を表せ」と言うのはあまりにも浅はかで無神経な要求だと感じ、怒りがこみ上げ、その部屋を後にしたと言うのです。この話を聞いて改めて感じた事があります。自身の存在を何かの要素で認識する意味として理解されている「アイデンティティー(identity)」と言う言葉が、ここ20年程で北アメリカの中では使われる頻度が急上してきたような気がします。自分のあり方を強く主張する事を促すような動きが世間の中にあるのを以前よりも感じるのです。しかし、実際のところ個人のアイデンティティーとは、本当にその人を取り巻く要素を意味しているのでしょうか? 

未完成?

「これが自分だ」と言うスタンスの人もいれば、「自分を見つける為」と言って、あらゆる事柄に挑む人も多くいます。しかし、自分を知っているつもりでも、また、望む事柄全てを達成できても、心が満足できるわけでもない事を、私たちはそれぞれ何処かの時点で経験するのではないでしょうか? 自分を探そうとする事も「探し出した」と宣言する事も、その根底にあるものは、自分自身が未完成な状態に感じてしまう気持ちとの葛藤なのではないでしょうか?(*) そして、この「未完成との葛藤」と言うもの自体は人類史上、何も新しい事ではないのだと聖書は語っているのです。

* 伝道者の書

人が自身を未完成に感じてしまう事には、正当な理由があるのです。人間の心には、神様の愛しか埋めることができない大きな穴があるのだと誰かが語ったのを覚えています。その穴は「虚無」としても知られていてます。この虚無意識とは、自身を創られた神を知らない人生がまだ完成していない事に魂が葛藤している状態から来るものです。それに対処しようとする気持ちを、人は「アイデンティティーを知る必要性」と勘違いして、間違った場所でそれを探してしまうのではないでしょうか。

やりたい事や好み、特技、業績、人間関係、または学歴や職業などを追求する事は大切であり、重大な事も多くあります。ただ、ここで見方を変えてみます。同じ人物がもし全く別の国や環境で生まれ育ったとしらどうでしょう? その人にとって、これらの事柄も異なってくることは十分に想像できないでしょうか? それならば、個人のアイデンティティーと言うものは、もっと何か不変なもので、正にその人自身の魂そのもの、命そのものと理解できるのではないでしょうか? その人を全てご存知であられる創り主なる神様の愛を知る事が本当に自分を見つけることなのだと、私は自分の経験からも確信を持って言えるのです。

個人のアイデンティティーとはその人が、イエスキリストの十字架にある計り知れない愛で、神様から知られ愛されている存在であるところにあります。神を知らないままでは愛されている自分を見つけられていないままですね。それ故わたしたちは神を知るまで「未完成」な自分を感じてしまうのでしょう。イエス様の十字架の救いを受けるなら、人は神から愛された子供としての素晴らしいアイデンティティーを見出す事になるのです。(*)   その時点から人は神様がその人の為に意図しておられた計画の通りに人生を歩む事ができ、生きていく意味を味わう人生になると、自分の体験を通しても確信できるのです。

* Ⅱコリント5:17

「人は例え全世界を手に入れても、まことの命を損じたら、何の得がありましょう。その命を買い戻すには、人はいったい何を差し出せば良いでしょう。」

マタイ16:26