英語の授業で接続詞の「until」を教わると思いますが、「〜まで」と大抵訳される単語です。文法用語の教える通り、センテンスを「接続」する役割があるんですね。普通は ”A” until “B” とあれば「B」するまで「A」する、といった具合に英文読解を教わります。ただこの”until” には、「ついに」というパンチ力のある表現をすることがあります。
詩篇73篇の17節に出て来る “until” がこの一例です。16〜17節を聖書のいくつかのバージョンを見比べて見ましょう。キーワードを太字にさせていただきました。
新改訳:私は、これを知ろうと思い巡らしたが、それは、私の目には、苦役であった。私は、神の聖所に入り、ついに、彼らの最後を悟った。口語訳:しかし、わたしがこれを知ろうと思いめぐらしたとき、これはわたしにめんどうな仕事のように思われた。わたしが神の聖所に行って、彼らの最後を悟り得たまではそうであった。新共同訳:わたしの目に労苦と映ることの意味を知りたいと思い計り、ついに、わたしは神の聖所を訪れ彼らの行く末を見分けたリビングバイブル:主を憎む者どもがこんなに栄えている現実をどう説明したらいいのでしょう。ところが、ある日、神の聖所で瞑想していた時、これらの悪者どもの行き着く先を悟ったのです。ESV: But when I thought how to understand this, it seemed to me a wearisome task, until I went into the sanctuary of God; then I discerned their end.AMP: When I considered how to understand this, It was too great an effort for me and too painful. Until I came into the sanctuary of God; Then I understood [for I considered] their end.NLT: So I tried to understand why the wicked prosper. But what a difficult task it is! Then I went into your sanctuary, O God, and I finally understood the destiny of the wicked.
「ついに」とか、「ところが」と日本語に訳されています。口語訳では「までは」と訳されていますが、ちょっと日本語がまどろっこしい感じがするように思えます。パンチ力は「ついに」が一番だと思います。
なんで、この「ついに」がそれほど大事かというと、この単語の前後で詩篇73篇は大きくいって二つに分かれるからです。「ついに」の前では、作者の目は世の中に向いています。妬ましく思ったり、自分の律された信仰生活の意義を疑問視したりしています。ところが「神の聖所に入る」と「ついに」わかったんです。神様の方を見て、礼拝したからです。自分はそれまで「獣」のように振舞っていた、と詩篇作者は言います。
「ついに」”until” はまるでバスケの選手が片足を軸足にして、クルッと回転する、その軸足のような単語です。私たちの日常の歩みの中でもこの「ついに」がしばしば現れて下さいますように!