インターネットのおかげで便利なことは多くあります。北米の教会もインターネットを利用し、バーチャルギャザリング、オンラインでの集会やミーティング、そしてコミュニケーションが簡単に、安全に出来るのですから。「バーチャル」が「リアル」に限りなく近づいている感じです。そんな中で、バーチャルの中で人に対して罪深い行動、人を傷つける行為をした、と神様から示された時、どうしますか?どうやって人と和解をすることが出来るでしょうか?

バーチャル「仮想」とは言え、どんなソフトやアプリを使っていても、人との交わりにおいては聖書の教えは決して「仮想」にはなりません。現実の教えとして受けとめ、キリストに従うものらしく行動していかねばなりません。

インターネット上では、特にチャット、ツイート、フェースブックなど、相手が目の前にいるわけでないので、聖書の語る人と人との関係や、語る言葉について誤解、中傷、誹謗など多く見受けられています。ますます持って気をつけるべきですね。

こんな一般論的なことはよく分かっているよ、と思ってました。ところが、最近の出来事を通して、神様が直接自分に、「これはあなたに語っているんですよ」と言われたことを今回はシェアします。


先日現地の衛生局からコロナの検査に行くよう指示を受けました。勤め先で感染者が出たからです。スタッフのチャットルームは自主隔離のことや、検査のこと、結果や衛生局からの確認電話などについて賑やかに皆チャットしていました。

そんな中、あるスタッフが衛生局の方からかなり手厳しい応対をされ、もどかしい経験をした、というチャットがあり、私は不覚にもそのチャットに対して、衛生局の対応について手厳しい、辛辣なコメントを載せました。

すると別のスタッフが私のコメントを引用して、「みんな不満はあるでしょうが、コロナの今は、特にみんなお互いに柔和に対応しましょう。」とコメントしたのです。私はバッサリと切られてしまったような気がしました。指摘されてみると、それは当然で、指摘した人に感謝するべきですが、到底そうは思えず、攻撃されたような気持ちにもなり、モヤモヤでした。

翌朝、一晩祈ったり、もがいたりしながらも、聖霊は次の御言葉を示しました。

「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」エペソ4:29

ここをメッセージ訳では、ユージーン・ピーターソンはこう訳しています。

“Watch the way you talk. Let nothing foul or dirty come out of your mouth. Say only what helps. Each word, a gift.” 「語り方に注意しなさい。悪い言葉汚い言葉が口から出てはいけません。人の役に立つことだけを語ればいいのです。一つ一つの言葉は贈り物なのですから。」

翌朝まず最初に「この箇所を私は今後はチャットや対話においてのガイドにすることに心に決めた」、とチャットルームで宣言し、批判的な言葉を使ったことをお詫びしました。また、指摘をしてくれた方には直接ダイレクトメッセージしてお詫びし、指摘をしてくれたことを感謝しました。

その朝のスタッフの祈り会でブレイクアウトルームに3・4人に分かれた時、なんとその二人と一緒のスモールグループでした。当事者同士が集まって祈りあうことになったのです。ズームを手配したスタッフに聞いたのですが、分散はランダムにしたんだそうです。神様は、「仮想対話」での罪ある行動に対して「和解」を求め、私が「仮想和解」のステップをとったところ、「ズーム」という媒体を通して、ブレイクアウトルームという、プライベートなスペースにおいての「和解」を基にして祈り合い、さらに関係を築き上げる、というとりなしをしてくれた、と感じました。神様のフォローアップやケアに感謝しました。

世の中にはコロナ関連のことだけでなく、様々な物議を醸し出す、意見の分かれる問題があります。争点を論じるあまり、意見を持っている人に対して突っかかってしまったり、切り捨ててしまうような発言などは特に注意したいです。さらに一歩進んで、前掲の御言葉を心に留めて、人の役に立つ、人を活かす言葉を選びたいですね。

「でも、あの人は間違っている」

と、私の心、あなたの心に浮かぶかもしれません。最後に、ピーターソン先生のデボーショナルからシェアします。彼の祈りが私の祈りとなれるようにと願いました。

Eugene Peterson, Praying the Message of Jesus
March 20

“Don’t pick on people, jump on their failures, criticize their faults – unless, of course, you want the same treatment. That critical spirit has a way of boomeranging.” Matthew 7:1-2
「人のあらさがしをしたり、失敗につけこんだり、失敗を批判してはいけません。ただし、もちろん自分も同じように扱われたいのであれば別ですが。その批判的な心というものはブーメランのように戻るものです。」マタイ7:1-2(メッセージ訳)

When we criticize others – evaluate their worthlessness, their lack of virtue, their practice of vice – we waste the moral energies that were given to us for use in the work of compassion. Examining others with an eye to spotting their defects is self-destructive.
私たちが人を批判する時とは、つまり、彼らには価値がないこと、彼らが善に欠けていること、彼らの行いは悪であることをを査定する行動のことを指しています。そんな時、私たちは本来、あわれみの働きのために与えられているはずの、道徳的なエネルギーを無駄遣いしていることになります。

So pray, “I find, by your Word, O God, that I am utterly incompetent to criticize others. I have only meager information about them; I only vaguely understand your purposes in them. Instead of pronouncing judgments on them, I will work and pray for them, in Jesus’ name. Amen.”
祈りましょう。「ああ神様。あなたの御言葉を通して、私は人を正当に批評するなど到底不可能なことだと分かっています。ほんのわずかばかりのことしか彼らについて知らないのですから。彼らにおいてあなたがどんな目的を持っておられるか、微かにしか分かっていません。彼らに裁きを宣告する代わりに、どうか私が彼らのために労をなし、祈ることが出来ますように。イエスの御名によって祈ります。アーメン。」