​北米では6月が学校の年度末で、夏休みが開けると9月から新学期です。高校生や大学生は卒業後、新しい仕事に就くのが夏の間です。やりがいのある仕事につけたら、というのは誰でも望むところですね。

でも、仕事と家庭の両立が出来るかどうか、なんて悩みませんか?良く聞く悩みですね。クリスチャンはさらに、信仰と仕事が両立出来るかどうか、なんて悩んだりするのではありませんか?どうしても仕事を神聖なるもの=信仰活動、と考えるのには抵抗もありますね。

教会で礼拝したり、奉仕活動することだけが「信仰の活動」で、毎日の仕事は糧を得るための「信仰とは別の活動」、と仕訳している方も多いのではないでしょうか。 職場が宗教にはネガティブだと、益々「仕事は仕事、教会は教会」みたいな姿勢をとってしまうようになります。 でもそれだとなんだか自分が二人に分かれているようです。

以前の「想うこと」ブログでご紹介しましたが、ユージーン・ピーターソン先生は、毎日の仕事について、「これはクリスチャンの仕事じゃないぞ。お祈りじゃないじゃないか。善い行いではないな。」というのは悪魔のささやきだ、と言います。

天地万物を創造された神様は、人をその似姿(Imago Dei) に創られた、と聖書は語ります。 似姿に創られた人間には、果たすべきこと、天職が与えられていると聖書は示していると思います。

創世記で神様が全ての創造を終え、7日目に休息した、とありますが、「休息」という言葉には、語源的に「君臨」、という言葉と関連しているるそうです。つまり、天地創造を完了した主なる神は、被造物を統治する王座に就いた、というのが「安息」の基になっていると分かります。

私たちは、似姿に創られているのですから、全知全能・万物を創造された王なる神に仕えること、それが天職だと考えられます。王に仕える(1)祭司、つまり礼拝し、あがめ、神の名を広く知らしめるのが役割です。そして、第二に主の命令通り、造られたものを治める(2)王の(神の代理として)役割を持ちます。罪で壊れたこの世の中を回復させることがこの地を治めることになります。 それは、ゆがんだ神と人との関係を正し、人と人とのつながりの関係を修復してゆくこと、それが人に与えられた贖いの働きだと聖書は語っています。

ペテロは私たちが「王である祭司」と語り、それは神様の目的・天職だと言っています。

「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださったかたのすばらしいみわざを、あなたがたがたが宣べ伝えるたるためなのです。」
ペテロ第一の手紙 2章9節

今おかれている職場、これから入るキャリアの道で、神の似姿に創られたものとしてどうやってこの天職を全うできるか祈り求めることが最初のステップとなるでしょう。別のブログで私が「リフレーム」というコースから、信仰と生活の一体化について学んだことを追々紹介したいと思っています。

使徒パウロはあなたが今いる場所、時代は偶然ではなく、神様が定めた、と語っています。そしてあとは自分で頑張れよ、ではなく神の聖霊によって神の中に生きている、と励ましてくれます。(太字は筆者による)

「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちの息と万物とをお与えになった方だからです。

神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。

これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。

 私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。

使徒の働き17章24~28節

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