私は待つのが苦手です。先日も家内と旅行している時、電車を一本逃してしまい、「ああ、待たなきゃなんない」と思いました。もうちょっと早く歩いていれば待たなくて済んだのに、と残念がりました。まあ、次に来る電車には「余裕を持って」間に合ったわね、という家内の言葉を少しうらめしく思ったりしました。
多分、時間を損した、自分の思い通りのスケジュールにならなかった、というのが心にあるからでしょう。最近聖書で読んだ箇所から想わされたのは、この「待つ」ことについてでした。
聖書に出て来る「希望」とか「望み」という言葉は得てして「待ち望む」「熱心に待つ」と訳されているようです。
詩篇25篇15〜22節にこう書いてあります。
わたしの目は常に主に向かっている。主はわたしの足を網から取り出されるからである。 わたしをかえりみ、わたしをあわれんでください。わたしはひとりわびしく苦しんでいるのです。 わたしの心の悩みをゆるめ、わたしを苦しみから引き出してください。 わたしの苦しみ悩みをかえりみ、わたしのすべての罪をおゆるしください。 わたしの敵がいかに多く、かつ激しい憎しみをもってわたしを憎んでいるかをごらんください。 わたしの魂を守り、わたしをお助けください。わたしをはずかしめないでください。わたしはあなたに寄り頼んでいます。 どうか、誠実と潔白とが、わたしを守ってくれるように。わたしはあなたを待ち望んでいます。 神よ、イスラエルをあがない、すべての悩みから救いだしてください。(口語訳)
ダビデの待ち望みの姿勢はアクティブです。おかれた状況をあきらめてしょうがなく待ちくたびれるのではなく、「誠実と潔白」を保つかたわら、神様に祈り続けるのです。
詩篇40篇1〜5篇ではこう書かれています。
「わたしは耐え忍んで主を待ち望んだ。主は耳を傾けて、わたしの叫びを聞かれた。 主はわたしを滅びの穴から、泥の沼から引きあげて、わたしの足を岩の上におき、わたしの歩みをたしかにされた。 主は新しい歌をわたしの口に授け、われらの神にささげるさんびの歌をわたしの口に授けられた。多くの人はこれを見て恐れ、かつ主に信頼するであろう。 主をおのが頼みとする人、高ぶる者にたよらず、偽りの神に迷う者にたよらない人はさいわいである。 わが神、主よ、あなたのくすしきみわざと、われらを思うみおもいとは多くて、くらべうるものはない。わたしはこれを語り述べようとしても多くて数えることはできない。」
ティム・ケラー師は、この詩篇について、こう書いています。
Servants waiting on a great lord are not twiddling their thumbs but watching every expression and gesture to discern their master’s will. 偉大なる主に使えるものたちは単に親指をくるくる回して待ちくたびれるのではなく、主人の一挙一頭足に注意を払い、主人の意思を探り究めようとするのです。(”The Songs of Jesus” – March 23)
主に待ち望む、ということは消極的な、受け身の姿勢ではなく、主の御心を探り、神の義を求め、祈りを神様に向け続けることがその要素なんですね。