キリスト教に対して反対意見はいくつもあるでしょうが、中でも、「キリスト教は排他的である」と言う意見はよく耳にします。今日のタイトルの聖書の言葉はイエスが語ったものですが、この段落の一部です。
イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」
ヨハネ伝 14:6-7
「わたしを通して出なければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」という言葉がしばしば、他の宗教を信奉している人に対して、意見交換以前に、論争を終わらせるために、彼らをさっさと切り捨ててしまうために使われているように感じます。そんな取り扱いを見ると、イエスを信じたい、と思っても、この箇所に遭遇すると、悩む人の信仰への道への足取りを鈍らせていることがしばしばあるのでは無いかと思えます。
もちろんイエスの言葉は正しく、イエスにこそ救いがあります。使徒ペテロ、パウロも次のように語っています。他にも多くの聖書の箇所がイエスこそが救い主であることを語っているのです。
- 「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」(使徒のはたらき 4:12)
- 「それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」ピリピ書 2:10-11
キリスト教はイヤ、という人や、他の宗教でもどこがいけないの、という人対して、「イエス以外はダメ、って聖書が言っているからダメ。」と語ることも時には大事かもしれません。聖霊がそう語ればそうするべきですから。ただ、わたしは、多くの場合、そのように短絡的な表現を使ってしまうのは、実は自分にはイエスが一体どういう意味で彼ご自身が道で、真理で、いのちだ、と語ったかが何となく漠然としているのではないでしょうか? イエスが道で真理でいのちなのが、どうして世の中の全ての人にとって重要で、見過ごしてはならないことなのか、自分の言葉で、自分の人生の視点から、噛み砕いて語る事が必要ではないかと感じます。
このイエスの言葉が発せられた背景は見逃せません。弟子たちはエルサレム郊外で過越の祭りの祝いの晩餐をしています。しかしそれは私たちが誕生会などで楽しむパーティーではなく、弟子たちは最初から最後まで心を騒がせるような晩餐でした。
イエスは一番卑しい召使がやるように突然弟子達の足を洗ったり、弟子達の中に裏切り者が現れると言ったり、もうすぐ自分はいなくなる、など、弟子たちは混乱と困惑、そして恐れに満たされていたことでしょう。
イエスはそんな弟子たちに「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」と語り、イエスがいなくなるのは、花婿が花嫁を迎え入れる準備のために実家に帰るように、イエスも「行って、場所を備える」と説明します。
そして、それはどこですか、という弟子の問いに答えて「道であり、真理であり、いのちである」と語ったのです。
将来のクリスチャンたちに対して神学的な論争において、強い切り口を与えるためにイエスはこの言葉を用意したのでは無いんですね。
ですから、わたしはこの文脈では、イエスの言葉は誰が(どの神々が)正しいか、白黒決着をつけよう、というための言葉ではないと思うのです。わたしはイエスは弟子たちを励ますために、正しい希望を持てるように、と語りかけたのだと思います。
では、イエスは一体どういう意味で、「道、真理、いのち」である、と語ったのでしょうか?
一つ気をつけるべきことは、イエスは「道」の選択肢、「真理」のチエックリスト、「いのち」のバロメーターを私たちに覚えてそれらを正しく達成してほしい、それが唯一の救い、と言っているのでは到底無い、ということです。キリスト教は車を運転する資格を唯一もらえるという運転免許教習所ではありません。彼の救いは運転免許の試験に受かることでもありません。
イエスは彼を知ってほしい、と語ります。そして、イエスはあなたに彼が誰であるか紹介しているのです。わたしは本当にイエスが人物として、神として知ることの出来るお方であることに感謝しています。
今月の説教などを通して学んだ事を以下に紹介します。
神学者の Thomas A Kempis は次のようにこの「道、真理、いのち」について考察しています。(筆者抄訳。原文は抄訳の後を参照して下さい)
わたしについてきなさい。わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。道がなければ進むことは出来ません。真理がなければ知ることは出来ません。いのちがなければ生き続けることは出来ません。あなたが従うべき道はわたしです。あなたが信じねばならない真理はわたしです。あなたが願いもとめるべきいのちはわたしです。わたしこそ誰からも侵略されない道なのです。わたしこそ揺るがない真理なのです。わたしこそ終わりのないいのちなのです。わたしは真っ直ぐな道です。わたしが至上の真理です。わtしが真の、恵みの、そして神により与えられるいのちなのです。わたしの道にとどまるなら、あなたは真理を知り、真理があなたを解放し、永遠のいのちを得るのである。
Thomas A Kampis, “Imitation of Christ” Chapter 56
“Follow Me. I am the Way, the Truth, and the Life. Without the Way, there is no going. Without the Truth, there is no knowing. Without the Life, there is no living. I am the Way which you must follow, the Truth which you must believe, the Life for which you must hope. I am the inviolable Way, the infallible Truth, the unending Life. I am the Way that is straight, the supreme Truth, the Life that is true, the blessed, the uncreated Life. If you abide in My Way you shall know the Truth, and the Truth shall make you free, and you shall attain life everlasting.”
イエスを知る、ということは、この3つの要素を全て知ることにつながります。どれか一つだけ選ぶとか、そういうことでは無いのです。
道、という言葉には「生き方」というニュアンスがあります。イエスが私たちの生き方になるのです。
真理、という言葉には「現実」というニュアンスがあります。私たちの存在の理由がイエスにあるのです。
いのち、という言葉には「(人の手によって作られたものではない)神からのいのち」というニュアンスがあります。いのちは自分で勝ち得るものではなく、神からの賜物なのです。
イエスは弟子たちとの晩餐において、常に弟子達との人間関係、繋がりの中で神について、神の御国について、自分について語っているのです。テキストを配って暗記を促し、テストで高得点をとるようなコーチング・チューターではないんですね。ですから、いつもイエスは「招く」のです。決して彼との関係に入れるかどうかハードルを設けているのではありません。
イエスは心を騒がせ、方向性を見失い、何を信じたらいいのかわからない、と悩むものに、イエスご自身を指し示したのです。わたしを信じなさい。わたしはあなたが進む生き方であり、この現実の中での生きる目的であり、わたしがあなたのために備えている神様からのいのちだから、と招いているんだ、と。
現代の私たちも同じでは無いでしょうか?パンデミック、政治問題、人間関係、金銭の問題などなど、私たちも心を騒がせ、方向性を見失い、何を信じ、人生の目的は何か見えなくなる事があります。そんな時、イエスは、あなたに、そしてわたしに、弟子達と同じように、毎日の生活の中でのイエスとの関係の中で、イエスこそ「道であり、真理であり、いのちである」と語り、どうか彼の元にきてほしい、ついて来て欲しい、とあなたを、そしてわたしを招いているのです。
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