CA Churchの牧師達は毎週定期的にブログを投稿しています。今回のブログは、礼拝・音楽・芸術担当のAndrew Marcus 牧師による投稿を意訳したものです。オリジナルの投稿はAndrewの写真をクリックしてください!(あるいは https://cachurch.ca/blog/voices/ をコピペしてください)

今年一月のブログ「ハンナの祈りに学ぶ」も合わせて読んでみてください。

Andrew Marcus
Pastor of Worship & Creative Arts

先日朝起きて、まず私が妻にかけた言葉は、「ああ、またパンデミックの一日かぁ」でした。すると彼女は、間髪入れずに、こう答えたのです。「違うわよ、あなた。新しい朝、新しい恵みよ。」

その瞬間分かりました。私の頭も心も神様の声から離れ、さっさと、この世の声に奪われてしまっていたんです。多くの方々と同じように、私もパンデミック関連の記事や、症例の数々が次々と発表されて、出来る限り家に籠もっていなければならないので、正直打ちひしがれている感じです。

ソーシャルメディアのフィードやひっきりなしに更新されるニュースに気を取られてしまいます。

このような状況の中でも、神様は私たちにあわれみをかけ、聖書の学びを通して、大事な事を思い起こさせてくれます。この世の声に心を奪われてしまうと、神様の声を聞き損なう、と教えてくれているのです。


声の物語

サムエル第一をずっと読んで来ているのですが、エルカナという男が出て来ます。彼にはハンナとペニンナという二人の妻がありました。(ちょっと困った状況です。これは神様の結婚に関するそもそものご計画ではありません。これについてまた別の機会に語りたいです。)

ペニンナには子供達が授かりましたが、ハンナは子供に恵まれませんでした。この二人のうち、エルカナはハンナの方をより愛していた、と聖書は書いています。エルカナはハンナにありとあらゆる贈り物をしました。神の御前にいけにえを捧げる時には、彼女の分を2倍捧げたりしたのです。

エルカナはハンナを慰めようと、「どうしてそんなに悲しんでいるんだ。元気を出して。私は十人の息子を持つ事よりもお前をもっと愛している、って分かっていないのか?」 ハンナは、どんなに慰められても、母親になりたくてもなれない自分に深く落胆し、その気持ちを払拭出来ないでいました。さらにひどいことに、ペニンナもハンナの状況をいっそう悪くしたのです。ペニンナは子供が出来ないことに関して、ハンナをからかい、苛立たせ、ひどい言葉をかけ、情け容赦なくいじめたのでした。

さて、ハンナがシロの土地の主の宮へ行く時はいつも必ず宿敵ペニンナが同行して、からかい、苛立たせようとしました。何年もこれが続いたのです。とうとう、もうイヤ、という時が来ました。ハンナは立ち上がると、主の宮にゆき、神様のもとに彼女の体験している痛みを打ち明けたのです。

皆さん、ハンナは二つの異なる声を聞いていたのです。常に意地悪な事をいう宿敵ペニンナの声、そして、自分の愛に不足はないだろう、となんとか納得させようと語るエルカナの声です。


ハンナの応答

ハンナの応答から何が学べるでしょうか?

エルカナの愛や、ペニンナの偽りに応答するのではなく、ハンナは主の宮に向かったのです。そこで彼女にとって一番大事な声を聞くためにです。この物語で私達が分かることは、彼女は祈ったんです。それは、最後の手段としてではなく、まず最初にすることとして祈った事が読み取れます。

それでは、私たちはどうしたらいいでしょうか。ニュースやソーシャルメディアを切り捨てるべき、と勧めているわけではありません。中庸が肝心ですが、今何が起きているかをわきまえることは大事です。しかし、ここ数日で、神様が私のたましいに示してくれているのは、私が神様の声より他の声に心を許して耳を傾けてしまっていた、ということです。外部の声が大きくなり、神様の声が聞こえなくなってしまうと、神様についての自分の見方がおかしくなってしまいます。すると、不安や恐れが膨れ上がり始めるのです。ですから、「ああまたパンデミックの一日かぁ」なんて言ってしまうのです。「新しい朝だ。新しい恵みだ。」と言うべきなのにです。

神様の御言葉に向かい、そのみ声を聞く時、そして祈りが最後の手段ではなく最初の応答としての行動であるなら、神様について正しい見方が出来ます。すると、何もかもが新しくなります。平安を体験するのです。

「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(ピリピ書 4:6-7)」


私達が祈る時、神様は平安を持って答えて下さいます。ハンナと彼女の置かれた立場でもそうではなかったでしょうか。本当に興味深いと思います。ハンナの場合は、普通に考えると、こんな風な方程式をたてたくなります。

祈り→妊娠→平安

しかし、ハンナにはそうはならなかったんです。


平安の神

ハンナは宮で祈りを終えると、立ち上がり、それまで辞めていた食べ物や飲み物を取りました。聖書によると、彼女はもはや悲しげな様子ではなかった、とあります。その場面では彼女には神様からの回答はありませんでした。その時に妊娠した訳でもありません。彼女の体験した方程式は、こうだったのです。

祈り→平安→妊娠

神様は、人生の荒波を沈める前に、なんらかの答えを与える前に、私たちにまず平安を与えて下さいます。主に祈り求める時、私たちは耳をすまして神様の声を聞きとり、平安に預かるのです。


このブログを書くちょっと前に、Brother Andrew による「God’s Smuggler (神様の密輸人)」という本を読みました。その本の最後にある箇所に心に留まりました。著者のBrother Andrew はこう語ります。

「テクノロジーのせいで、今すぐ直ちに、という必要やプレッシャーが私たちにひどく強くふりかかって来てしまっている。私達がまず最初に重要な事としてせねばならないのは、忍耐強く、心を静めて神のみ声に耳を傾けることであるべきなのに。」

God’s Smuggler, Andrew van der Bijl,

昨今、あなたが耳を傾けているのはどの声にですか?この世の声に紛れて、主のみ声が聞こえなくなっていませんか。主の声こそ何よりも大事なんです。ハンナのように、最後の手段としてというより、まず最初の応答として私達が祈れますように。どうか主よ、この世の声ではなく、あなたの声に耳を傾けることが出来ますように。

「私は苦しみの中に主を呼び求め、助けを求めてわが神に叫んだ。主はその宮で私の声を聞かれ、御前に助けを求めた私の叫びは、御耳に届いた。(詩篇 18:6)」

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