ルカは、7章でイエスの神の愛ーへセドと、それに関わる人々のことを次の6つのセクションにおいて記していると思います。イエスに触れられたものたちは造り変えられたのです。

  1. v1-10  異邦人・ローマ兵士(敵)strong sense of authority and obedience – faith
  2. vv11-17 未亡人で息子を無くした母(死)restore life to both mother and son, life flows from Jesus, not the other way around
  3. vv18-23 バプテスマのヨハネ(イスラエル)confused about Saviour
  4. vv 24-35 世の人々 (世俗)hear what they only want. Means to an end, Jesus plus
  5. Vv36-50シモン(宗教家)religious only sees people as labels
  6. vv36-50 売春婦(罪人)sought mercy, knowing undeserving

今回は#2 未亡人とその息子のよみがえりについて見ていきます。

11 それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちと大ぜいの群れがいっしょに行った。12 イエスが町の門に近づかれると、やもめとなった母親のひとり息子が、死んでかつぎ出されたところであった。町の人たちが大ぜいその母親につき添っていた。13 主はその母親を見てかわいそうに思い、「泣かなくてもよい」と言われた。14 そして近寄って棺にに手をかけられると、かついでいた人たちが立ち止まったので、「青年よ。あなたに言う、起きなさい」と言われた。15 すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めたので、イエスは彼を母親に返された。16 人々は恐れを抱き、「大預言者が私たちのうちに現れた」とか、「神がその民を顧みてくださった」などと言って、神をあがめた。17 イエスについてこの話がユダヤ全土と回りの地方一帯に広まった。

ルカ書 7:11-17

あわれみに満ちた救い主

イエスの癒しといのちの回復はさらにイエスが一体何者で、何をされていて、そしてどんな目的を持っているのか、という問いかけに答えを見出す一歩になっています。前回は異邦人の敵とも言える兵士のしもべの癒しでした。神の無償の愛「へセド」が表されました。ルカの2章でシメオンが、赤子イエスを抱いて、「異邦人を照らす啓示の光」、と預言された通りです。

ローマ百人隊長は「信仰」を表し、信仰によって彼のしもべは癒されました。今回の箇所に現れるやもめの母親は特にイエスに対して何をした、ということはありませんでした。単にイエスが、「かわいそうに」思ったからでした。4章で、イザヤ書61章(下記参照)から読んだイエスが、「今日この御言葉が成就した」と語った救い主の姿は、まさしく、このあわれみに満ちている救い主だったのです。ルカの2章のシメオンの預言のシーンに、やもめだった預言者アンナも共にいたことは決して偶然ではありません。ルカは福音書を通して社会底辺や周縁に追いやられている者達をとりあげ、彼らの目からのイエスキリストを伝えています。

神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現す主の植木と呼ばれよう。

イザヤ書 61:1-3

背景:やもめについて

1世紀ごろの社会では女性は社会の主流に入れてもらっていませんでした。中でも夫に死なれた未亡人・やもめはさらに社会から除け者になっていたと言われています。しかし、ルカはそのように社会周縁にある、底辺にあるものたちに目を向け、イエスの姿を彼らの目から捉えているのです。イエスもそんな社会や階層主義に対して、ルカ20:47でイエスはこう語ります。「律法学者たちには気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ったり、広場であいさつされたりすることが好きで、また会堂の上席や宴会の上座が好きです。また、やもめの家を食いつぶし、見えを飾るために長い祈りをします。こういう人たちは人一倍きびしい罰を受けるのです。」 

ユダヤのしきたりでいくと、未亡人が葬列を率いることになっていました。ラビたちはこう宣言するのです。「女よ、あなたが死をこの世にもたらしたのだから、あなたが葬列をひきいるべきなのだ。」と。このやもめにとって、ひとり息子に死に別れたばかりか、罪の意識、蔑視の眼差しの中を歩んでいたのでした。


葬列

イマジネーションを働かせて下さい。葬列に加わったものとして周りを見回して見ましょう。ガリラヤ地方の暑い日差しの中、ゆっくりと葬列は進みます。棺を担ぐもの達がゆっくりと歩みます。みな涙を流し歩んでいます。葬儀に雇われた泣き女が激しく泣いている声がひびき渡ります。家族を失ったやもめが葬列を率いてゆっくりと歩いています。埋葬用の布、香辛料を抱えたもの達が横にいます。


死人に触れたら

そんなところにイエスが弟子達と現れます。(イマジネーションを続行していて下さいね)イエスがやもめに何か語っているようです。すると、なんとイエスが手を伸ばし棺に触ったのです!驚きと恐怖に満たされます。誰もそんなことはしないからです。棺に触れる、ということはすなわち死体に触れるということで、(棺どころか担いでいるものに触っても同じです)触った本人は「汚れている」とみなされるからです。誰も自分が汚れている状態にはなりたくありません。細かい儀式や何日も待たねば「清い」状態に戻れず、まともな日常生活を送れなくなるからです。

しかし、もっと驚くことに、死んでいた息子が生き返ったのです。

イエスは触ることによって汚れがイエスに伝わるのではなく、イエスのいのちが彼を通して死んでいた体に流れて行ったのでした。


誰が回復された?

イエスはこの生き返った息子を母親に「返された」と聖書は語ります。いのちが回復されたのは確かに息子の方ですが、母親も息子を「返して」もらうことでそのいのち・人生が回復したのです。

孤独である、ということほど辛いものは無いのではありませんか? イエスは息子を返すことでやもめとして何かと辛い人生を送って来ている彼女にいのちの回復を与えたのです。


ストーリーに飛び込んで見ませんか?

NT Wright は、「『神が顧みてくださった』という言葉の意味は、神が我々に近づいてくださり救ってくださった、そして今この時を我々は待ち焦がれていたのだ」と語ります。NT Wright は続けてこう導いてくれます。

「ぜひ、このストーリーをもう一度振り返って見て下さい。ただ今度は、物語を追うのではなく、自分に当てはめたものに飛び込んで見ましょう。あなたが今一番恐れていることは何でしょうか。事故や、病気、スキャンダルに巻き込まれることでしょうか?悲劇的なことに遭遇することでしょうか。祈りのうちにそのストーリーのシーンに入りましょう。そのシーンにおける悲しみ、苦しみ、苦い思い、苛立ち、怒りを感じるでしょう。そこにイエスは入って来て、共に歩んで下さいます。イエスがあなたに近づき、語りかけ、触れて、そしてあなたに命じるのです。あなたの思った通りの言葉では無いかもしれません。あなたが要求することを与えてくれないかもしれません。しかし、イエスが共にいる、という事が何にも勝り、それによってあなたはそのシーンを歩み、通り抜ける事が出来るのです。」