最近「不思議」に心をつかまれています。というより「不思議」をつかみたい、と願っている、というほうが正確です。
80年代でしたが、「不思議大好き」というキャッチ・コピーがありました。糸井重里さんによるもので、デパートの宣伝でしたが、なんかワクワクさせるものですよね。
現代文化、社会はどうもこの「不思議」を持ちにくくしている感じです。クリスチャンとしてもそれは問題なんです。
聖書にはイエス様についての預言に、「不思議な助言者」(旧約聖書イザヤ9:6)と出てきます。英語でいくと “wonder”という単語が当てはまります
でも私は性格的にも、仕事柄からも、かなり現実主義なほうです。「不思議」は実につかみどころのないもののように思えるんです。何かを体験して目をキラキラさせる妻のことを羨ましい、と密かに思ったりしています。
最近読んでいる本にこの不思議について語っているものがあり、「ワオ」と想わされたのでシェアします。以下で紹介する内容は Eugene Petersonの “Living the Resurrection” という本とその元となった講演会からになります。
彼のポイントは生涯をかけて歩む、イエスの弟子としての人生にはイエスの「復活」が最大の鍵である、と説きます。「復活の不思議」「復活の食事」「復活の友人達」と題して3つの側面を語っています。いずれの側面もとても意義深く、ぜひおいおい紹介していきたいと願っていますが、今回は「復活の不思議」の中から自分にとって最もインパクトのあった点を書きます。彼はこう言います。
「仕事場では自分の知識を使って、上手に出来ることをしますね。それが自分の仕事だと考えるんです。
「その通り!」と私は言います。すると彼はこう続けます。
「そうこうしているうちに、神様とその働きをまず第一に、ということがほんの少しずれて行って、神の国においての自分の働きがまず第一になってしまうんです。」
「なんだって!自分はズレてたかな?何を第一に仕事にするか間違えて来てるかな?」と思いました。
すると彼はこう言います。
「自力本願で何でも自分の力でやることを促進する北米の文化が私たちのイマジネーションの力に広く影響を及ぼしました。それによって、私たちは、何にもまして大事で重要な「復活」に対して鈍感になっているのです。」
私は教会で働いていますが、だからと言って直ちに自動的に復活中心の生き方になる訳ではありません。これはしまった、と思いました。
「じゃあ、どうしたら復活を取り入れられるかな」と自問しました。自分に常にある何でも自力で成し遂げる、という態度やイマジネーション不足に対していつも敏感に対抗しないといけないんだ。「不思議」の気持ちを積極的に持たないとだめだ、なんて決意を固めたりしたんです。それにはどうしたら、とピーターソン先生の言葉を読み続けました。
するとこう言うんです。
「私たちが「復活」に目を向けられない理由は、「復活」は私たちがコントロールしたり、利用したり、改善して用いようとすることが出来るものではないからです。「不思議」と言うのは上手にパッケージにしたり、「不思議力アップ」とか出来るしろものではありません。」
「え、じゃあ何、もうお手上げってこと?」彼は、そんな私に(読者や講演会の参加者たちにですね)ワーシップ、つまりイエス様を讃えることを勧めています。
え、もう日曜にやってるじゃん、と思ったりしますが、そうでは無いんですね。イエスに対してどう接するか、と言うことを彼は言っているんだと思いました。
彼は、「畏れ」と「親密さ」の両方でイエスを拝することが大事だと言います。(以前の投稿「畏敬と親密」もご参考に)
畏れ、とは怖い、と言うこととは微妙に違います。畏れには、怖い、と言う気持ちプラス「何だか分からない」と言う要素が含まれるのですが、彼はこの「何だか分からない」が神様の領域だと言います。だからなんかわかんないけど、神様凄い、という感じでしょうか。
マタイの福音書にこの崇拝の仕方の例が出てきます。イエスの復活後の出来事です
さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤと、ほかのマリヤが墓を見に来た。すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわったからである。その顔は、いなずまのように輝き、その衣は雪のように白かった。
番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。
すると、御使いは女たちに言った。「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。
ですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そこで、お会いできるということです。では、これだけはお伝えしました。」
そこで、彼女たちは、恐ろしくはあったが大喜びで、急いで墓を離れ、弟子たちに知らせに走って行った。
すると、イエスが彼女たちに出会って、「おはよう」と言われた。彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ。
すると、イエスは言われた。「恐れてはいけません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです
ここでは、マグダラのマリアたち、そしてローマ兵士たちを対比できますね。彼らはいずれも恐怖を起こさせる体験をしました。兵士たちは恐ろしさのあまり死人のようになった、と書かれています。倒れ伏して気絶したのでしょうか。マリアたちはイエスに出会い、彼に近づき、その足にすがりついたのです。
畏れを抱きつつ親密の情を示す、これが礼拝のエッセンスだとピーターソン先生は語ります。私もこんな風にイエス様に近づきたい、と願います。ではどうするべきでしょうか?ピーターソン先生は、こう続けます。
「これにはその場にいて、実際に自分が体験する、関わりをもつ必要がある。
頭で理解するだけでなく、体験を通して知ることが必要です。聖書を読み、内容を理解し、神学的な知識を深め、道徳的な行動としてそれらの知識を応用・適用する、と言うのでは不十分です。イマジネーションを働かせ、神様のストーリーに飛び込んで見ることが「不思議」を体験できるヒントだと思います。現在ルカの福音書から学び、シェアをしています。聖書は時にさらり、と読んでしまうとポイントを逃してしまいがちです。ルカは詳細の情報を随所に残してくれていますから、イマジネーションを活発にして考えてみるととても有益だと思っています。どうか皆さんのイエスとのジャーニーにも常に「不思議」があって、豊かな経験、関わりを持ち続けられますように!
「復活の不思議:ワーシップ」への1件のフィードバック
コメントは受け付けていません。