「私にとって仕事が人生です。仕事が無くなったらどうしていいかわかりません。」

こんな風に宣言したことはなくても、こう感じたことは誰にでもあるでしょうね。私はそのようにきっぱりと言いませんでしたが、私の生活ぶりはまさしくこの言葉を体現した生き方になっていた時期があります。

「仕事」の代わりに「恋人」「財産」「息子・娘」「会社」「音楽」なども入りますね。

もちろんやり甲斐を感じ、誠心誠意何かに打ち込んでいるのは重要です。問題なのは、やり甲斐の対象が自分のアイデンティティーとすり変わるのが問題です。

どういうことかと言うと、例えば、全身全霊を傾けて描いた絵をけなされたら、画家は自分自身を全否定されたと受け止めてしまう、というようなことです。それは、先日の、教会でのアーチストを集めたチームナイトで聞いた言葉が引き金になって想わされたことです。

その方は現職は学校の教員ですが、そのかたわら、創作活動も活発で、書店に並ぶような本を出している方です。彼は、「拒絶されることにどう対応するべきか」と言うテーマのトークをしました。開口一番、まず何よりこれを忘れないように、と言う前置きで言ったのが次の一言です。

「自分の作品(あるいはどんなアートでも)は、すなわち自分のアイデンティティーではない。」

えっ、て思いませんか?私はえっと思いました。特に芸術家や小説家の方は自分の人生を吐露し、いのちを削って(大げさでしょうか?)作品を作るのでは、と思っていたからです。自分の人生をかけてこそいい作品が出来るんじゃないか、って私の頭の中でモヤモヤが発生し、思い巡らせ始めました。

彼は、「自分のアイデンティティーは神にあり、私は天地を創造された偉大なる神の子供である。それは決して揺るがない。たとえ、自分の作品がけなされ、出版社にこき下ろされても、それは作品であり、自分のアイデンティティーではない。」と言うのです。

とてもジェネラルに簡素に言うなら、確かなアイデンティティーから作品(仕事、やりがいのあることとか)が生まれますが、その作品に対しての評価や価値は自分のアイデンティティーを評価したり価値判断するものではないんですね。

この順番は重要だと思います。特に現在の文化の声は、アイデンティティーは自分で作り上げて、それを何としてもキープするんだ、という強い声に満ちているからです。一つの大きな文化の流れとしては、「役に立つなら」存在価値がある、という声があることです。失敗作=役に立たない、だから生きる価値無し、というような短絡的で誤った方程式に応じた生き方をしたり、促したり、強いたりしているのを多く見受けるようになって来たと感じます。

しかし、クリスチャンにとっては、自分のアイデンティティーはイエス・キリストに存在します。失敗作、成功作にかかわらず、自分の存在意義と価値は、揺るがないイエスという岩の上にあるんだと再確認しました。

このリンクは(PDF) Niel Anderson著「Bondage Breaker」から”Who am I in Christ キリストにある自分とは” です。「I am …. と言う自分は何者か」、と言う言葉と、参照聖書の箇所がリストになっているものです。英語がオリジナルですが日本語もつけてみました。

何か・誰かに傷つけられたり、道を見失ったり、落胆した時にこのようなリストを通して、自分は神様にあって何者なのか、を思い出せる助けになると思います。ぜひ一度目を通して見て下さい。