読む前の要点:

  • 「永遠」とはどんなもの、またはコンセプトなのでしょうか?
  • イエスキリストが来る前は人間はどうやって神を知る事ができたのだと思いますか?
  • 神に見極められてしまう世界とは、どんな世界だと思いますか?

ズームアウト

「神は、ひとりの人から全ての国の人々を造りだして、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。これは神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見い出すこともあるのです。確かに神はわたし達ひとりひとりから遠く離れてはおられません。」

使徒の働き17:26-27

これから何度かに分けて、神が創られたこの世界の始まりから終末までに関して聖書がどう教えているかの簡単な流れを勉強します。この世界の齢、恐竜たちに関して、ノアの箱舟と地を覆った大洪水、イスラエルがなぜ特別なのか、なぜ教会があるのか、イエスが救い主として来られる前に生きた人達がどうやって救われていたのか、この先人類はどうなるのか等の課題に大雑把ですが、触れていきます。この章では、ズームアウトして学ぶ事によって全体図を理解し易くなる事を願います。

聖書に記されているこの世界の創造の時から、預言されている終末までの時間の流れは、「父祖時代」、「神殿時代」、「教会時代」そして「後の世」と大きく四つに分ける事ができます。「父祖時代」には多くの場合に神が御使い(天使)を送ったり、または直々に人々に語られ、「神殿時代」にはイスラエルの民の働きや神が彼らに与えられた律法を通して、そして現代の「教会時代」には聖霊が人や教会や聖書を通して、神はそれぞれの時代にそれぞれの方法で御自身を人類に啓示なさいました。後に続く「とびら」シリーズ⑭-⑱でそれぞれの時代を勉強しますが、今回はその全体像にズームアウトして見ましょう。

全ての始まり-父祖時代

「永遠」と言う事柄は、「始めなく終わりなき、長い長い時間」と理解しようとすると頭に入り切らないものですが、時間として理解するのでなく、「時間」と言うフレーム(枠)の外側にある全く別のものと考えると、もう少し分かりやすいかも知れません。始めあって終わりがあるからこそ「時間」と呼べるのであって、永遠とは全く別のものと言える事が出来ます。

さて、時間の「始め」の話ですが、一般に教えられる進化論では、この地球や宇宙の齢を何万、何億の単位の年月で推定しています。ところが、聖書の視点では、神がわずか六日間で天地万物を創られたと語ります。どんなに余裕を与えても、聖書からの計算*ではこの世界はわずか一万年前後の齢になってしまいます。このギャップはどう言う事なのでしょう?この「六日間の創造」の真相に関しては、聖書学者達の間でも意見が分かれるので、次の章(とびら14)での父祖時代の勉強で詳しく触れます。

*一つの計算の仕方として、現代の世界史と重なる登場人物が登場するまで、アダムとイヴからの登場人物の齢を足していく方法があります。

 

世界大洪水とイスラエル

始めの世界に生きた人間達は、とことん望みが無くなる程に神を捨てた世界を造ってしまいました。その世界は、神の前に正しく生きていたノアと言う名の人物を除いて、「これ以上悪くなりようがない」と神が見切る所に到達してしまいます箱舟に乗ったノアと彼の家族7人(妻、息子三人と彼らの妻達)と各種の虫や動物や鳥のつがい達を残して、神がこの世界を一掃される記事が創世記に書かれてあります。この出来事は、神が後にイスラエルと言う国を発足される事と対象的である事も後に学びます。

創世記を読むと、その頃の世界は人間達の好きにやりたい放題で何の秩序も水準も無かった事が見受けられます。あのままでは、ノアの生涯が終わってしまうともはや神を求める人間は居なくなり、人類に救い主が送られる為の準備は不可能になっていたのではないでしょうか。

 

神殿時代

ノアの洪水の後、どれ程たったのでしょうか、神は、アブラハムと言う人物からイスラエルの民族を「選ばれた民」、すなわち神と共に生きる民として発足されました。この民族が「神殿時代」に入って、神を愛する事と神の道徳水準を学び従おうとする生き方を教えられます。周囲にあった国々の人々は、イスラエルの内に働く神の大いなる力を数多く目撃します。この様にして神殿時代には、神はイスラエルを通して国々に御自身を表されました

イスラエルと「救い主」

イスラエルと言う国には、その上さらに大きな神の目的が託されてありました。神の御子、イエスが世界の救い主(キリスト)として降誕される環境として準備されていたという事です。救い主が来ると言う神からの啓示は、ずっと始めの、アダムとイブが罪を犯してしまった時から神からの約束として告げられて来ていました。仮に、この様な準備がないまま御子イエスがこの世に来られたのであればどうであったでしょう?神の水準や罪の赦しに関してなんの教育も、救い主が来ると言う預言もないままの世界だったなら、誰一人としてイエスと言うお方を「人類の救い主」として受け入れる根拠がなかったのではないでしょうか?

十字架の力

この章の最初の流れ図の一番上に、「贖い(あがない)」と記された紫色の矢印が画かれています。「贖い」とは買い戻すと言う意味です。 イエスの十字架は時間に縛られずに、全ての時代の神を求める人達を魂の滅びから買い戻す事を表しています。

いけにえ

父祖時代や神殿時代には、当然人々はやがて来られるとされていた救い主を見る事も十字架を知る事もありませんでした。しかし彼らは動物達のいけにえを通して、やがて起きるイエスの「罪の身代わり」を知らず知らずに象徴して来ていたのでした。(神殿時代の勉強で詳しく語ります。)全焼のいけにえは遠い昔から繰り返されていた儀式でしたが、それがイエスの十字架が実際に起きてからわずか40年足らずで神殿の破壊と共になくなっています。(流れ図:西暦70年参照)世界史の中に記されているこの出来事は、神の計算どおりであったかのようです。本物の贖い(イエスが人類の身代わりになった事)が成就された事で、それ以降は動物たちを犠牲にする必要が無くなったからだと理解できます。

教会時代

聖書がまとめられ、イエスキリストの言葉や行動を知る事ができる今の世の中では、この贖いの知識を「福音」と呼びます。神の言葉(聖書)や福音に手が届く境遇に置かれているこの現代、人類は「教会時代」に生きています。これは計り知れない恵みと特権です。そしてそれと共に大きな責任が問われる事も忘れてはいけません。この時代に生き、聖書の言葉や福音に触れる事はそれに対する適切な応答を要求されるのです。

 

後の世

そして、聖書はまた、後に来る世界の事を語ります。今の世界には必ず終わりが来ると聖書は語っています。それがいつなのかは神のみがご存知です。後の世が訪れる事は素晴らしい事であり、深刻であり、恐ろしい事でもあります。聖書には多くの終末時に関しての預言があります。主に知られているいくつかをとびら18「教会が育つ その2」で勉強します。

時と場所

出だしの聖句にある通り、永遠であられる神がこの時間と言う枠の中で、一人一人の生まれる時と場所を、計り知れない知恵を持って定めて下さいました。人間の知恵では理解できなくても、一人一人を救いに、永遠の命に導くために一番良いとされる環境の中に置いてくださっています。それなので現代では、色んな国で、迫害を受けながらでも多くのクリスチャン達がイエスキリストに出会った喜びに溢れて生きています。現在、世界中のクリスチャンの一人一人が、それぞれの置かれた時と環境の中で神を呼び求め、または神からの呼びかけに答えた人達なのです。

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