マグダラのマリヤの発見 1〜2節

安息日が終わった日曜の朝の事、この二日前、イエスの体を埋葬し切れなかった事から、その体に薬を塗る過程を終えるため、イエスを愛していた女性たちが墓に向かうのですが、ヨハネ伝では、いち早く辿り着いたマグダラのマリヤ(ともう一人の女性(*))の話から始まります。マリヤは墓を塞いでいた岩が退けられていた事とイエスの体が無かった事に大きく驚き、ペテロとヨハネ(**)のもとへ走って行って事の次第を伝えます。

*マタイ28:1
**著者のヨハネは自分をこの書の中で指す時、自身の名前を使わず
「イエスが愛された弟子」又は「もう一人の弟子」等の言い回しを
使っていたと考えられています。

二人が走る 3〜10節

マリヤが二人に話すと彼らだけがイエスの墓まで走ります。岩が退けられていた墓の中で二人が見たものは甘布だけが残された光景でした。二人はハッとします。十字架に至るまでの期間、イエスが幾度か十字架とよみがえりを預言しておられた(*)事を思い出します。それまで彼らが「まだ理解していなかった」のは彼らが無意識に、イエスは象徴的な事を語っておられるのだと思うようにしていたとも考えられます。しかし、二人はその場で、イエスが本当によみがえられた事を「見て信じた」、理解したのでした。

*マタイ16:21〜22、17:22〜23、マルコ8:31〜32、
9:30〜32、ルカ9:21〜22、9:43〜45 等

マリヤとイエス 11〜18節

ヨハネとペテロが帰って行った後、再び墓に戻っていたマグダラのマリヤがたたずんで泣いていました。「誰が? 何処に? なぜ?」そんな混乱に心が吹き荒らされていた事でしょう。そして再び覗き込んだ時、二人の御使いたちが座っているのを見ますが、彼らは普通の青年の姿だったので(*)、マリヤは御使いとは思わずに、「なぜ泣いているのか」と尋ねる彼らに訳を話します。するとマリヤは気配を感じ、後ろを振り向くと誰かが立っているのを見ます。その人物も彼女に問います。

*マルコ16:5、ルカ24:4

「なぜ泣いているのですか? 誰を捜しているのですか?」

流石にこの人物をイエスだとは思いもしなかったマリヤは、「この人たちはきっとこの園の管理人たちなんだ。」そう思い込んで、泣いている訳を今度はその人物に話します。「イエスの体を何処に運んだか教えて欲しい、自分が引き取るから。」彼女の意気込みは「無茶」とも言えるすごいものでした。

しかし次の瞬間、その人物が「マリヤ」と彼女の名を呼んだ時、悲しみは瞬く間に喜びに変わったのです。「ラボニ!」(*)  当然の事、彼女はイエスにしがみつきます。「主イエスがよみがえられた! もう目を離さない! 早く彼を安全な場所に!」マリヤはきっとそんな風に考えたに違いありません。それをご存知であったイエスが彼女に言われます。しがみついてはならない、「まだ父のもとに上っていないからです」と。つまり、「全て神の計画通りだよ。そして私は物理的な意味でこの地上には残らない。もうすぐ父のもとに行くのだよ。」と言われていたのです。マリヤは精一杯の精神力を振り絞ってイエスに従い、再び弟子たちのところにイエスのことばを届けに走ったのです。

*16節 「先生」と意味する

イエスと十人の弟子たち 19〜21節

一方、残りの弟子たちの方はと言うと、マリヤやヨハネとペテロの話を信じる事ができたでしょうか? 彼らはどうして良いか分からずに、ただユダヤ人たちを恐れてその場所の戸を固く閉じていたようです。しかし突然、「平安があなたがたにあるように」と言うことばと共にイエスが彼らの真ん中に現れたのです。そして、今彼らが見ているイエスは幽霊ではなく、実際に「よみがえりの体(*)」で現れたイエスご自身である事を示すために、十字架で傷ついた両手(両腕であったとの解釈もされています)と脇腹を彼らに見せられます。弟子たちは当然のこと喜びました。彼らを去る時が迫っていたイエスは彼らにもう一度「平安があるように」と念を押して言われます。恐れていた彼らにイエスは神にある平安を持って欲しかったのです。

*Ⅰコリント15:35〜52 等

聖霊の息吹き  22節

イエスは続けて、父なる神がご自身をこの世に遣わしたと同様に、ご自身が弟子たちを世に遣わすのだと言われます*。そう語られ、次に彼らに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい。」と言われます。聖霊の働きがなければ、彼らはユダヤ人たちを恐れたままであり、神のことばを語る力も知恵も持てません。聖霊はイエスを信じる者の心の内側に宿られ、その人の心を強めたり悟りを与えたりしてくださいます。それに加え、人の外からも働いてくださり、その場に神の臨在を表してくださったり、神を語る者の言葉を心に届けてくださったり、時には特別な力を注いでくださったりもなさいます。(**) この時、恐れにかられていた弟子たちに、イエスは新たな勇気と心の一致を与えてくださる為に、聖霊の力がイエスの息吹から弟子たちに注がれたと理解できます。福音書の続編となる「使徒の働き」の中で、弟子たちが更なる聖霊の力を受ける場面もあります。(***)この様に、聖霊は段階を踏んで私たちを強めてくだるお方なのです。

*ヨハネ17:18
**ネヘミア9:30、マタイ10:19〜20、マルコ13:11、
ルカ12:12、使徒1:5、1:8、Ⅰコリント12:8 等
***使徒2:1〜11

罪の赦し 23節

続いてイエスは不思議な事を言われます。

「あなた方が誰かの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなた方が誰かの罪をそのままに残すなら、それはそのまま残ります。」23節

弟子たちはこの時から聖霊によって強められていき、後にあらゆる場所へ散らされて各地でイエスキリストにある罪の赦しを述べ伝え始めます。(*) 聖霊によってイエスキリストの十字架の購いが語られる時、それに応答して悔い改めて信仰を持つ者の罪は赦されます。しかし、その聖霊の力に逆らって真理を拒むのであれば、その人の罪はそのまま残される事になるのだとイエスは意味しておられます。

*使徒の働き

トマスの心 24〜25節

ところでこの様な感動的な出来事を見逃してしまった一人の弟子がいます。トマスです。彼は後日、他の弟子たちの話を一切信じようとしませんでした。自分で実際にイエスの傷跡を見てそれらに自分の手で触れるまでは、決して彼らの言っている事を信じないと言うのです。彼は仲間たちを嘘つき、気狂い扱いしていたのです。トマスが仲間たちから距離をおいて行動していた事や彼のこの宣言は、トマスのあれ荒んだ心を反映してはいないでしょうか? イエスの十字架での死がその原因だった事は充分に想像できます。トマスの言動から学べる教訓とは、試練の時にこそキリストにある兄弟姉妹から距離を置くのではなく、返って信頼できる者たちと共に祈り合う事が重要であると言う事です。

イエスとトマス 26〜28節

それから八日後、イエスが再び彼らの中に現れてくださいます。この時もイエスは彼らに平安を語られます。今度はそこにトマスもいたのです。そして彼に向かってご自身の傷跡を見なさい、触れなさいと促します。数日前のトマスの発言は当然の事、神であられるイエスに筒抜けだったのです。そして「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」と言われました。トマスは即座に信じます。イエスの十字架とよみがえりに関する預言は文字通りの話だったのだと。やはりこの方は神であったと痛感し、イエスを「私の主、私の神」と宣言したのです。真実を目の当たりにした時、彼の心は180度回転したのです。この彼の単純な信仰を神は喜ばせるものなのです。(*)

*マタイ5:8

見ないで信じる 29節

イエスは当然、この彼の信仰の展開を喜んでくださったに違いありません。ただ、トマスには、これからイエスの姿が見られなくなる日々の中で、「見たから信じるのではなく、見ないでも信じなさい」と言う事を強調されます。「見ずに信じるものは幸いです。」とは、イエスは何を意味されたのでしょうか。神は場合によって、超自然的な経験を通して人に語られる事があります(肉耳や心の中から聞こえる神の声、その人の夢の中での語り、自然界の不思議な動き、等)。しかし、それらを経験する事は稀です。超自然的な経験を追い求めるのではなく、イエスの顔すら知らない私たちが、イエスが語られたことばを信じて従う事が信仰であって、いつしか神の前に立つ日に神からの賞賛をいただけるのです。(*)

*マタイ25:1〜23

ヨハネ が記した事柄 30〜31節

この20章の最後に再度、著者ヨハネが自身の言葉を差し入れます。イエスの多くの言動の中から自分が記した事柄は、昔から預言されてきた救い主、キリストはこのイエスであった事を理解して貰う事ができるように選んで書き残したものであると綴ります。選んだ意図として、それを読む読者の誰でもがイエスを救い主として受け入れて、罪の赦しと「イエスの御名によるいのち」つまり永遠の命を得る為なのだと、自身「ヨハネの福音書」を書いた総合的な目的を強調したのでした。