受難 1〜3節

「釈放するのであれば、イエスではなくバラバだ」と言う要求を宗教指導者たちや、彼らに煽られて群衆たちまでが叫ぶ中(前回参照)、ローマ総督ピラトは彼らの要求通りにはせず、イエスをむち打って彼らを満足させようと考えたようです。あのイエスには悪いけれど、これでユダヤ人たちが満足してくれたら彼を死刑にしなくても済む。ピラトはそう考えたのでしょう。しかしこの決断は、イエスが十字架に掛かる以前から激しい苦しみを受けると言う事態を招いてしまったのです。

ローマ兵たちに取り囲まれ、むち打ちに留まらず、罵倒、暴行やあざけりがイエスを襲います。この場所で兵士たちはイエスに茨(いばら)の冠、そして王という立場の人物が身につける紫色の衣をイエスにまとわせ「ユダヤ人の王様ばんざい」と言って彼をあざけり、からかうという、悪意の極まる行動に走ります。暴行やむち打ちからくる苦しみや激痛と悲しみで、イエスの心は張り裂けていたに違いありません。

この間、目に見えない世界では、イエスの周りに御使いたちが集まり、戦いの号令をイエスがかけられるのを待っていたと充分に想像できます(*)。これまでも何度か集団に襲われそうになった時、イエスはするりと彼らから逃れると言うことができていました(**)。それは十字架の「時」が来るまでは、神の言葉を語りしるしとされる奇跡を行うと言う使命を果たしておられたためです。しかし、遂にその「時」がやって来た今、イエスはそこから逃れようとせず、苦しみの中を自ら通られたのです。この苦しみと十字架での死を通った後に待っている「人類の救い」と言う偉大な喜びを心に留めておられたからです(*)。

*マタイ26:53
**ヨハネ 7:32-36、8:59、10:39-40、ルカ4:29
***ヘブル12:2

ピラトはユダヤ人のもとに、身も心もボロボロになったイエスを連れて行きます。「ハッキリとした罪はわからないけれども、これだけ痛い目に合わせたのだから満足しろよ。」と言う論理でした。この時イエスは「王の格好」をさせられていましたが、皮肉なことに、神はこの究極な悪意ある仕立て上げをもお使いになり、彼らが誰に対してこれらの悪行を行なっているかをビジュアルで訴えておられたと考えられます。御子イエスはやがてこの世を支配する王として戻って来られるのだと言う預言が聖書の中に多く記されているのです(*)。

*イザヤ32章、ゼカリヤ14章、ミカ4章、黙示録20:4、他多数

恐れるピラト 4〜8節

ピラトに対するユダヤ人たちの答えは「十字架につけろ!」と幾度も叫ぶ事でした。無罪の人間を死刑に言い渡すことを拒むピラトは、ある程度の道徳心をもっていた総督であったと見受けられます。彼は「それなら自分たちで十字架につけなさい。自分はこの人の罪を認めない。」と突き返します。ユダヤ人たちは引き下がろうとせず、「イエスが自身を神の子と自称しているので、このような人物はユダヤ人の律法の上では死刑に値するのだ」と言って要求を引き下げません。

「神の子」 – この言葉はピラトの心を揺さぶったようです。彼は「ますます恐れた」と書かれています。当時はこの地方ではギリシャ神話が盛んだった事が彼に影響していたのか、それとも小一時間前のイエスとの対話でイエスがご自身の王国の話をしていた事を思い出しての恐れだったのかも知れません。ピラトはもう一度イエスを官邸に連れ戻し、「あなたはどこの人ですか?」と尋ねます。どうか、普通の人間らしい答えを返してくれ。そうすれば、二度と妙な宣言や教えを広めないと約束させて、この人を殺さずにユダヤ人たちを満足させる事ができる。そう考えていたのかも知れません。

どうして無言? 8〜9節

イエスは無言です。ピラトがイエスを判断するのに必要な情報は、既に一歩前の会話の中でイエスの口から直接与えられていたので、イエスがそれ以上語られる事柄はなかったのだと理解できます。人は、神からの答えを知っていても聞きたい答えを要求し、沈黙を返される事がしばしば起きるのではないでしょうか?

ピラトはこれまで何百人と言う数の囚人を前にした事が想像できます。死刑を逃れるために、誰もがピラトの前に弁明の機会を懇願してきたに違いありません。ところがどうでしょう。このナザレのイエスは機会が与えられていると言うのに一言も話そうとしません。苛立ったでしょうか? ピラトはイエスに、「君は私が誰だかわかっているのか? 君を釈放するも十字架につけるも、決める権威を私はもっているのだよ。今しかないぞ。何かを言った方がいいのではないか?」と言う内容で返答を要求します。

「ピラトの罪」と「ユダヤ人たちの罪」10〜11節

「私が誰だか分かっているのか?」 この概念はそっくりそのままイエスの11節の一言でピラトに突き返されます。父なる神が計画をもっていた。それ故この時間だけピラトはイエスに関しての事柄を決める権威を与えていた。そうでなければ、ピラト及びユダヤ人たちが神の御子であられるイエスに指一本触れる事はできていなかった。それがイエスの返答だったのです。

イエスは続けて語られました。この異国の地で「神の御子イエスの裁判」と言う世界史の中心的な出来事に巻き込まれている総督ピラトが神から問われる罪に比べて、イエスを彼に突き出したユダヤ人たちが問われる罪は「もっと大きい」のだと言う内容のことばでした。

古くからの預言を学びながら神を敬いキリストを待つ姿勢を装っていても、実際のところ宗教指導者たちの多くは、人々から敬意われながら保たれる地位や権威にしか興味をもっていなかった事がこれまでのヨハネ 伝の学びの中で幾度も見受ける事ができます。本来ならば、このユダヤ人たちが真っ先にイエスをキリストと見定めて人々をイエスに導く事を神は望まれていましたが、彼らはイエスを拒絶して今こそ彼を死に定めようと意図していたのです。知識的にも権力的にも多くを与えられていたユダヤ人たちの責任は大きいのだとイエスは意味しておられたのです(*)。  

*ルカ12:48

十字架刑 12〜18節

ピラトはこの時点でも、只者とは思えないイエスを何とかして釈放しようと努力を続けていますが、最終的にユダヤ人たちからの追い討ちの言葉がピラトに止めを刺します。それは政治的な一言で、「自身を王だと主張するイエスを釈放した事を、もしカイザル(ローマ皇帝)が知ったらあなたはどうなるか」と言う意味を含めたものでした。当時の皇帝テベリオはただでさえ疑い深い人物であって、周囲の者たちは一つ間違えると謀反を疑われて殺される危険にさらされていた事が知られています。つまりこれはユダヤ人たちのピラトに対する立派な脅迫であったと言えるのです。皮肉な事は、あたかもカイザル・テベリオを支持するかのようなユダヤ人たちの言葉ですが、実際には彼らはその時の政治情勢を利用していただけに過ぎなかった事も想像できます。「除け。十字架につけろ!」そう叫ぶユダヤ人たちを前に、ピラトは遂に断念してイエスを十字架刑に言い渡します。14節にはその日が過越の祭りの前日であった事がわかります。この備えの日に子羊たちがほふられて、次の日には料理されたと理解されています。子羊たちはやがて来られるキリストの形であった事を心に留めると、御子イエスがこの日に十字架で死なれる事は大きな意味があったのです。

拷問を受けられたばかりのイエスの体にどれだけ力が残っていたでしょうか? それでもイエスはご自身がこれから釘付けにされる事になっている十字架を背負ってコルゴダ(どくろの地)と呼ばれる、エルサレムの外にある丘に向かって歩かされ、その丘の上でとうとうイエスはもう二人の受刑者たちと共に十字架にかけられたのでした。

罪状書き 19〜22節

一方でピラトは十字架刑を言い渡して直ぐにある行動に出たようです。イエスの十字架の罪状書きの札を書かせたのでした。そこには「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス」と書かれました。つい先程までイエスを釈放しようと頑張っていたピラトです。とても彼があざける気持ちで書いたものではないでしょう。ピラトは自分を脅迫して望まぬ方向へと追いやったユダヤ人たちにせめてもの復讐をしたかったようにも思えます。

その罪状書きはヘブル語、ラテン語とギリシャ語で書かれました。このピラトの皮肉をも用いて、神はヘブル語でユダヤ人たちに、ラテン語でローマ人たちに、ギリシャ語でその地帯に住む様々な人種にイエスが王であると言う概念を焼き付けておられたのではないでしょうか? 20節で書かれているように、十字架刑の実行された場所はエルサレムに向かう、あらゆる人種の人々が通るところだったので、大勢の人たちがその札を読むことになったのです。

ピラトが期待したであろう通り、この罪状書きはユダヤ人たちの感に触れたのでした。彼らは書き直しをピラトに要求しますが、流石にここではピラトは踏ん張って総督である権威をふるいます。「私の書いたものに口出しする気か? そのままにしておけ。」(22節 リビングバイブル)と言って断じてその要求を受け入れませんでした。

適用:

御子イエスが苦しみに合わされ、十字架の上であなたの罪の報酬を身代わりとなって受けてくださった事が、神があなたのために開いてくださった魂の救いの道です。御子イエスキリストはあなたの王であられますか?