クリスチャンとして生きる中で、私たちは日々神様と向き合う時間を持つ事が重要な事だと理解しています。だからこそ、浮き沈みはあっても、聖書を読む事と、祈る時間を持つ事に努めるものです。祈りとは神様との対話であり、個人の神様への賛美、正直な願いや嘆き、怒りであっても真心を神様に曝け出す事であり、真っ直ぐに神に体当たりする姿勢であると言えます。このような祈りは、誰でもいつでも何処でも神様に祈る事ができるので、祈りの根本であって何よりも重要な事です。なので、難しい、又は堅苦しい言葉や綺麗な流れの祈りなどをする必要は全くありません。その事を前提とした上で、もう一つの祈り方があります。それは別の人物によって、聖書の真理に基づいて書かれた祈りを借りて、自分自身の真心を持ってそれを祈ると言う方法で、私は「借りた祈り」と名付ける事にしました。このコーナーでは、私たちの祈りの生活に編み込めるような「借りた祈り」を載せていける事を願っています。

事前に誰かによって並べられた言葉を祈る事は、人類史上の古くからの慣しになっています。聖書のことばを元に祈る慣わしが旧約聖書の時代からあったり(特に詩篇から)、教会の礼拝の中で「主の祈り」を唱える時間があったり、祈祷書やあらゆる祈りの本が出版されたりしています。注意しなければいけない事は、讃美の歌を歌う時と同様で、口で唱えるだけでは当然何の意味もなくなり、返ってお呪いと同じような扱いになってしまします。言葉を借りて祈るのであれば、祈っている内容を意識しながら、「アーメン」「本当にそうです。」と言う気持ちで、真心から神様に向けて自分自身の祈りに変えながら祈ってこそ大きな意味があるのです。

不必要だとは言え、「難しい」とか「堅苦しい」と思われるような言葉や言い回し等には濃厚な意味を持ったものも多くあったり、「綺麗な流れ」とは言いたい事が順序よく並んでいたりする事も多くあります。そして普段、自分で祈る時には言葉の拙さと苦戦し勝ちではあっても、事前に並べられた言葉の中で自身の気持ちや聖書の真理をスラスラと祈る事ができたりするのです。これは自分の個人的な感覚ですが、「借りた祈り」を祈る時は、自分だけで祈る時に比べて、祈りがいつの間にか考え事に変わってしまっていると言うもどかしい事が少ないようにも思えます。祈りに集中できる分だけ神様に近く感じられる事も多いのではないかと思います。実際に私も、このコーナーの第一作として一つの英語で書かれた祈りの本から日本語に要約していたものを書いている最中、キーボードを叩きながら自分の心が聖霊に揺さぶられて目頭が熱くなったりもしました。それは、その並べられた祈りが神のことばである聖書の真理に基づいたものだからなのだと確信します。そうでない祈りであっても、その人の本心であれば確かに許されるのですが、聖霊があんな風に働いてくださる事は稀になるのではないかと感じます。実際に主イエスも、ご自身のことば(=神の御ことば、聖書のことば)そのものが聖霊であられるのだと、語っておられるのです。(*)(神は本当に不思議なお方です。) 聖書の真実に触れて聖霊が心に働いてくださるのは、自然な事なのですね。

*ヨハネ6:63

個人的には今、ある一つの「借りた祈り」を暗記する事を自分にチャレンジしています。朝の祈りの時間に導入してもらったり、通勤中に歩きながらボソボソと祈ったりする事に憧れています。あなたもそんなアイディアはいかがでしょうか? これからこのコーナーで、聖書の真理に基づくと言う重要な条件を満たした祈りを、神様に頼りながら自分で編みだしたり、身の回りから探し出して要約する事に努めようと思います。私自身にも、また、一緒に参加してくださる読者の方々にとっても、神様と向き合う時間がより濃厚なものとなる為の扉の一つになれば幸いです。