ルカ 23:17-26

17 さて、ピラトは祭りのときにひとりを彼らのために釈放してやらなければならなかった18 しかし彼らは、声をそろえて叫んだ。「この人を除け。バラバを釈放しろ。」19 バラバとは、都に起こった暴動と人殺しのかどで、牢に入っていた者である。20 ピラトは、イエスを釈放しようと思って、彼らに、もう一度呼びかけた。21 しかし、彼らは叫び続けて、「十字架だ。十字架につけろ」と言った。22 しかしピラトは三度目に彼らにこう言った。「あの人がどんな悪いことをしたというのか。あの人には、死に当たる罪は、何も見つかりません。だから私は、懲らしめたうえで、釈放します。」23 ところが、彼らはあくまで主張し続け、十字架につけるよう大声で要求した。そしてついにその声が勝った。

24 ピラトは、彼らの要求どおりにすることを宣告した。25 すなわち、暴動と人殺しのかどで牢に入っていた男を願いどおりに釈放し、イエスを彼らに引き渡して好きなようにさせた。26 彼らは、イエスを引いて行く途中、いなかから出て来たシモンというクレネ人をつかまえ、この人に十字架を負わせてイエスのうしろから運ばせた。

バラバ

ルカは福音書と使徒の働きを書いたのですが、登場人物が豊富でルカにだけ出てくる人たちも結構います。今日フォーカスをする二人、殺人者バラバもキレネ人シモンもその中に入るでしょう。ルカはこの二人の記事を通して、イエスの身に何が起きたか、どうして起きたのか、それが私たちに何の関係があるのかを語っています。

ピラトは早く事を片付けたかったでしょう。ピラトは慣例として囚人を一人解放することにしていました。「ところで総督は、その祭りには、群集のために。いつも望みの囚人をひとりだけ赦免してやっていた。(マタイの福音書 27:15)」これで厄介なイエスの取り扱いも収束するだろうと思ったのでしょう。

ところが群衆はイエスではなくバラバを釈放しろ、と詰め寄ってきました。

バラバは暴動と人殺しの罪で捕まっていました。イエスにはユダヤのリーダーたちによって同じような罪が被せられていました。

三回もピラトはイエスを釈放すると宣告したにもかかわらず、群衆はバラバを釈放しろ、イエスを十字架の死刑につけろと叫びました。

マタイの福音書にはピラトは水で手を洗い、自分には責任がないが良いか、と訴えかけました。

「そこでピラトは、自分では手の下しようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、群衆の目の前で水を取り寄せ、手を洗って、言った。「この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。」(マタイ 27:24)

罪人バラバが釈放され無実のイエスが死刑に定められたのです。

旧約聖書イザヤ書 53:6 にこう書かれています。

「 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」

N.T Wrightはこの箇所をこう説明しています。

「しかし、こここそが福音の頂点であり焦点なのです。ルカはこのことのためにお膳立てをしてきたのです。罪人、反逆者、人類全ては自分たちの姿をバラバに見いだすのです。そうするならばこのストーリーの中でイエスが、罪と悪が大きかろうと小さかろうと、そのために糾弾されるべき自分と身代わりになった事を発見するのです。神様の風変わりな正義においては、ローマや人類の編み出す不正な「正義」を一蹴し、人のあわれみが届かないところに、神のあわれみが、罪人の運命を共有するばかりか運命と身代わりになることによって届くのです。」

But this is in fact the climax and focus of the whole gospel. This is the point for which Luke  has been preparing us all along. All sinners, all rebels, all the human race are invited to see  themselves in the figure of Barabbas; and, as we do so, we discover in this story that Jesus comes to take our place, under condemnation for sins and wickednesses great and small. In the  strange justice of God, which overrules the unjust ‘justice’ of Rome and every human system, God’s mercy reaches out where human mercy could not, not only sharing, but in this case substituting for the sinner’s fate. 

N.T. Wright, Luke for Everyone 和訳は筆者の抄訳

クレネ人シモン

ルカはバラバとシモンを通して私たちにイエスに何が起きたか、どうして起きたか、そしてそれが自分にどう関わるか語るのです。シモンを通して、イエスに従い、ついてゆくことはどういうことか教えています。

シモンは過越の祭りのために地元の北アフリカ、クレネから巡礼の旅をしてきたのです。神を敬い、エルサレムに信仰の歩みを進めてきたのですが、街の外に設置された処刑場に向けてすすむ死刑囚一行に遭遇しました。

ルカは福音書の中でイエスが十字架について語られたことを記録してきました。

「イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」ルカ 9:23

「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。」ルカ 14:27

イエスは、彼に従う者全てに、「十字架をおってついてきなさい」と呼びかけられているのです。クレネ人シモンは文字通りイエスの十字架を背負ったのです。彼の十字架を背負った歩みが今日のクリスチャン達の歩みの模範となっているのです。