ヨハネ第一の手紙 2:28-3:24
28 そこで、子どもたちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。それは、キリストが現れるとき、私たちが信頼を持ち、その来臨のときに、御前で恥じ入るということのないためです。29 もしあなたがたが、神は正しい方であると知っているなら、義を行う者がみな神から生まれたこともわかるはずです。
1 私たちが神の子どもと呼ばれるために、—事実、いま私たちは神の子どもです—御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。2 愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。3 キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。
4 罪を犯している者はみな、不法を行っているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。5 キリストが現れたのは罪を取り除くためであったことを、あなたがたは知っています。キリストには何の罪もありません。6 だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪を犯しません。罪を犯す者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです。
7 子どもたちよ。だれにも惑わされてはいけません。義を行う者は、キリストが正しくあられるのと同じように正しいのです。 8 罪を犯している者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現れたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。9 だれでも神から生まれた者は、罪を犯しません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。10 そのことによって、神の子どもと悪魔の子どもとの区別がはっきりします。義を行わない者はだれも、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです。
11 互いに愛し合うべきであるということは、あなたがたが初めに聞いている教えです。12 カインのようであってはいけません。彼は悪い者から出た者で、兄弟を殺しました。なぜ兄弟を殺したのでしょう。自分の行いは悪く、兄弟の行いは正しかったからです。13 兄弟たち。世があなたがたを憎んでも、驚いてはいけません。14 私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。15 兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。
16 キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。17 世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。18 子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。
19 それによって、私たちは、自分が真理に属するものであることを知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです。20 たとい自分の心が責めてもです。なぜなら、神は私たちの心よりも大きく、そして何もかもご存じだからです。21 愛する者たち。もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、22 また求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行っているからです。23 神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。24 神の命令を守る者は神のうちにおり、神もまたその人のうちにおられます。神が私たちのうちにおられるということは、神が私たちに与えてくださった御霊によって知るのです。
「子供達よ」
ヨハネは「子どもたちよ」と7回この書簡の中で読者に呼びかけています。(ヨハネ第一 2:1, 2:12, 2:28, 3:7, 3:18, 4:4, 5:21)
もちろんこの書簡は子ども向けの書簡ではなく、全ての信者に向けて書かれています。確かにこの書が書かれた頃はヨハネは老人となっていたのでみんな誰でも子どもみたいなものだったかも知れませんが、この呼びかけにはヨハネのある思いがあったと思います。
信仰を持つとそれは神の家族の一員になることです。ヨハネの福音書 1:12 にこう書かれています。
「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」ヨハネ 1:12
ですから人間的な「子ども」と呼びかけているのではなく、ヨハネは神の家族としての「子ども」と呼びかけているのです。
さらに、子どもとして信仰を歩む中で、ヨハネは「危険もあるんだ、だから気をつけなさい」と呼びかけるのです。信仰の道が逸れてしまったり、誤った教えが入ってきたり、真理を見失ったり、そういう危険性があると警告し、どうするべきかを教え諭しているのです。
もしかしたら「子どもたち」なんて呼ばれたらバカにされたような、なんか邪魔にされているように思うかも知れませんが、とんでもありません。イエスは子どもたちをそんな風に邪険に扱った弟子達に「憤って」語りました。
「イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」マルコ 10:14-15
「子どもたちよ」という呼びかけは愛情に満ちた声がけなのです。
家族になったら罪は全部解決するのでは?
「子どもたちよ」と優しく語り、あなたは神の子どもですよ、と語りますが、3章4節から罪についてヨハネは教えます。
サラっと読むと急に雲行きが怪しいと感じませんか?自分の行動を振り返るとすぐに「罪」がそこにあり、途端にヨハネが自分に対して「神の子ども」じゃないね、なんて語っているように聞こえませんか?
少しこの点には説明が必要です。
罪を犯し続けること、そしてそれは破滅につながる罪のパターンになり罪に支配された生き方になることと、キリストに従いながらも犯してしまう罪について別々に考えるべきだと思います。別のコラムでも紹介しましたが、「義」と言う言葉は往々にして「完全に罪のない」と言うように理解され、信仰の歩みにおいて「義となりなさい」と言う言葉が、「完全なる罪のない信仰生活を持て」だと思って人生ががんじがらめになってしまっていることもあるでしょう。「義」は「義なるお方との」信仰における関係であると考えると、「キリストにとどまりなさい」と言う言葉の意味が分かってきます。イエスのように完璧になることを目指すのではなく、完璧なるイエスにすがりついて生きることが義と認められるのです。アブラハムの生き方においてはこのことは大きなポイントでした。
CAチャーチのBrad牧師はこう語りました。(抄訳は筆者による)
「破滅に向かう道、あるいは常習的な罪の人生と、義に向かって歩む中で道を踏み外す罪は二つの異なるものです。この新しい家族の関わりの中で生ける神の子どもとはどういう人生を意味するのかと生きていく中でも私たちは転んでしまいます。… クリスチャンとして私たちは義に向かうと言う信仰人生の道で転ばないようになることはまずありません。でも私たちには悔い改めと赦しと言う素晴らしい揺るがない船のいかりがあるのです。
Being on the path of destruction or living on the path of sin, or stumbling while you are on the path of righteous are two very different things. We try to live out this new family dynamic to live in the characteristics of what it means to be a child of the Living God, we are going to stumble. We keep going back to 1 John 1:9. … As Christians we’re never going to stop stumbling on the path while we’re on the path of righteousness. But we have that great anchor of repentance and forgiveness. 」
Pastor Brad Strelau, Group Discussion Guide
神の家族の子供の特徴は?
11節でヨハネは互いに愛し合いなさいと語ります。そしてこの愛は口先だけのものではなく、行動も伴わねば意味がないと語ります。そしてこのことはすでに「あなたがたが初めに聞いている教えです。」と思い起こさせています。ヨハネの福音書で繰り返しイエスが語ったことだったからです。
「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」ヨハネ 15:12
この15章の箇所は奇しくもイエスがブドウの木と枝の例えを用いて弟子達に「私に繋がっていなさい」と語った箇所でした。ヨハネの心にはその時のイエスの姿と言葉があったのでしょうか。私にはそんな気がします。
世の中はイエスの愛を彼を信じ生きているものたちの間にある愛によって認めるのです。イエスはこう語りました。
「もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」ヨハネ 13:35
ヨハネが繰り返し愛し合いなさい、とこの書簡で「教会」に対して語っていると言うことはとりもなおさず、教会の中に愛し合わない、困っている人がいても助けない、そう言う冷たい状況があったからでしょう。現代も状況は似ていることが多いのではないでしょうか。神に祈り求め、聖霊の導きに素直に従いましょう。
「神の命令を守る者は神のうちにおり、神もまたその人のうちにおられます。神が私たちのうちにおられるということは、神が私たちに与えてくださった御霊によって知るのです。」24節