2025年のビジョン(再掲)

私は主を拝し、安息日を守ることで主を私の喜びとします。私は日曜日を自分の安息日と定めます。

これはイザヤ書58:13-14の言葉に応じています。

安息日には詩篇37篇に読み取られる次の神の命令に従います。

  • 主に信頼すること
  • 主を自分の喜びとすること(4節)
  • 自分の道を主にゆだねること(5節)
  • 主の前に静まること(7節)
  • 耐え忍んで主を待つこと(7節)

神の豊かな約束が与えられています

主はわたしを引き上げ、わたしは地を受け継ぎます。わたしの歩みは神によって確かにされ、主がわたしを救い解放してくれるのです。

安息日を「喜びの日」と呼ぶ(イザヤ 58)

「自然と」とか「心のおもむくままに」安息日が主を喜ぶ日にはなりません。なぜなら「自然に」「心のおもむくままに」過ごすなら、間違いなく自分中心の、自分がやりたいことをして過ごすからです。ですからイザヤの58章では安息日を「喜びの日」と宣言するように書かれています。

そして詩篇37篇から五つの原則が与えられました。

  1. 主に信頼すること(3節)
  2. 主を自分の喜びとすること(4節)
  3. 自分の道を主にゆだねること(5節)
  4. 主の前に静まること(7節)
  5. 耐え忍んで主を待つこと(7節)

具体的にでは何をするのか(しないのか)を決めないと全ては絵空事、机上の法則になります。また具体的な点は自分の通っている状況に合わせられるようなある程度融通の効くものにしたいと考えました。

主に信頼すること

一口に信頼、と言っても口では簡単ですがどんな行動を指すのでしょうか?やはり祈りの中にまず信頼が与えられると思います。口で言うのは簡単ですが、でも口で宣言する必要があります。今年やっているのは祈りを口に出すことです。一人で祈る時は得てして心の中で祈りますが、あえて口に出して、「神様あなたを信頼して今日を過ごします」と宣言するのです。具体的には安息日(私の場合は日曜日)には仕事に心を向けない、ということにしました。教会のスタッフとして日曜礼拝でもこれまでは良く仕事的なお願い事や相談事にも対応していました。例えばその日の礼拝には関係なくともミーティングのスケジュール作りとか、先週起きたことに対しての対処の相談とか、教会のイベント予約などのチャットメッセージに対応したりしていました。特にスタッフチャットグループはひっきりなしにメッセージが来るので気をつけないとはまりこんでしまいます。私はコミュニケーションティームにも属しており、日曜の礼拝の録音をポッドキャストにアップロードすることが一つのタスクですが、もともと日曜当日にやることになっていました。しかし、チームリーダーから了解をもらい、日曜ではなく月曜の朝イチにすることにしました。そして、日曜日にスタッフとして手伝うとすれば誰かが助けを求める時だけにしました。それは1匹の羊を助けることに繋がると考えてのことです。

自分の道を主にゆだねること(5節)

詩篇37篇の23-24節にこう書いてあります。

「人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ。」この言葉を反芻します。また私のEメールの署名欄にこの言葉を使っています。自分の目に見えるところに出来るだけ多くこの御言葉をおいています。

主の前に静まること(7節)

自分に一番あった鎮まる方法はレクチオ・ディヴィナです。それについては以前のブログを参照して下さい。なぜこれが自分にあっているかというと、単に静まろうとすると余計なことを考えてしまうからです。レクチオ・ディヴィナだと聖書の言葉を噛み締めるので頭の中に連想されることは大事に捉えて主とそれについて対話することが出来るからです。日曜の安息日にはバイブル・スタディーの時間をスケジュール表に予約しています。レクチオ・ディヴィナか聖書の学びを深めにすることにしています。

耐え忍んで主を待つこと(7節)

オフィスでの仕事は、教会のプログラムやイベントを予約すること、アドミオフィスにまつわる様々なタスク、アルファコースチームの一員として裏方を勤めたり、などです。どんなタスクにも他のスタッフとの連携が重要です。何かを一つ進めるにも別の誰かがタスクを終えていないと進められないことが多々あります。自分の思い通りに事が運ばないのです。

神様とスタッフを一緒にするのではありませんが、祈りにおいて、自分の思い通りに事が運ばないことが多々あります。なかなか祈りの答えがこないとヤキモキします。すると、自分で出来ることを勝手にやってしまったり、自分の期待値を下げて、ある意味諦めて次に進むことも多いのです。

「耐え忍んで」というのは難しいです。頭で分かっていても実行に移すのが難しいことの一つです。

安息日に、解決策の一つとして神にとにかく感謝を捧げることを取り入れています。それは祈りへの直接的な答えに対してだけ感謝するのではなく(つまり答えられなければ感謝しない)、答えが与えられていない祈りや不安に感じることについて、とにかく神の神性にしがみついて感謝をしよう、とあるスタッフから学びました。祈りが答えられていなくても(あるいは自分で気づいていなくても)「神様、あなたは真実なるお方で、私を愛していらっしゃいます。感謝します。」と祈るのです。

主を自分の喜びとすること(4節)

誰もいなくても、何もなくてもイエスがいれば嬉しい、というところにはなかなか辿り着いていません。Eugene Petesonbによれば喜びは神からのプレゼントなのです。「幸せ」を追求しようとすると必ず溝に落ちます。安息日を意識的に持つことで主が喜びになります。