2025年の私の年間目標は「安息日を実践する」です。クリスチャンなのに何を今さら?と思うでしょうね。CA チャーチのスタッフ一同が Sarah Hailey Burton の Sacred Rhythm を共に学んで来ましたが、一番厄介だったのがこの安息日についての第9章でした。

安息日という言葉は聖書にしょっちゅう出てきます。イエスも福音書の中で「安息日の主」と自分を指して言っています。安息日がイスラエルの民と周囲の民を見極める一つの要素だとも言えます。イスラエルに旅行した人が一同にいうのは、安息日の間は、つまり金曜の日没から土曜日の日没の間は「仕事」が禁じられます。そのため不思議な体験をするそうです。例えばエレベーターは動いていますが、階層のボタンを押すのは仕事なので禁じられています。そこでエレベーターはずっと各階止まりで作動していると言います。スマホ操作も禁止です。まあお店も開いていないのですが。イスラエル以外の地域で暮らすユダヤ教信者はおそらくかなり苦労するのでは、と勝手に想像します。

それではクリスチャンはどうでしょうか?「安息日を守る」ことは必要ですか?必要だとすると具体的に安息日をどう過ごすべきでしょうか? 教会に行きさえすれば良いのでしょうか?

自分のクリスチャンの歩みを振り返ると、「安息日」については全く理解がかけており、大体にして「休息」イコール「怠惰」みたいな気持ちになるので、日曜は(クリスチャンの典型的な安息日)奉仕をより活発に、多く、素早く、行うのが当然と考えて来ました。教会生活においてはスタッフだろうとボランティアだろうと、日曜日は忙しいのが当然、ていう感じですね。

Burton は9章の冒頭に、自分が事故にあってその結果休養をせざるをえないことになったこと、そしてそれが安息日について真剣に考えることになった経緯を書いています。そして続けてこう説明します。(抄訳は筆者)

「私は人間には限界があるという考えを鼻をつまんでこばみ続けて来て、安息日の必要の上を行っているんだと振る舞って来ていたという事実に直面したくなかったのです。(定年退職した人たちやそんなに忙しくない人にとっては安息日はナイスな考えですが自分にはいらないと思っていたのです。)
“I did not want to face the fact that for years I had been thumbing my nose at human limitations, behaving as though I was beyond needing a sabbath. (It was a nice thought for retired people or people who weren’t all that busy, but I wasn’t one who needed a sabbath.)” 」

Sacred Rhythms, Chapter 9, Sabbath, Ruth Hailey Burton

自分も同じ考えを抱いていました。

彼女はウエイン・ムラーの「安息日」からこう引用しています。(翻訳は筆者の抄訳)

「一人になって、または友人と共に集い蝋燭に灯をともしましょう。やり残したことをお互いに語って、蝋燭のあかりが燃えるにつれて心配事が溶け去っていくようにしましょう。明日の労苦はするなとイエスは語ったのです。今日の労苦は今日十分にありますから。まだやらないといけないことはとりあえず忘れてください。今夜中には終わりません。安息日には鋤から手を離すのです。神様とこの地が必要なことをしてくださることを認めるのです。手を離しましょう。
“Light a candle, alone or with friends. Let each of you speak about those things that are left to do, and as the candle burns, allow the cares to melt away. Do no be anxious about tomorrow, said Jesus. The worries of today are sufficient for today. Whatever remains to be done, for now, let it be. It will not get done tonight. In Sabbath time we take our hand off the plow, and allow God and the earth to care for what is needed. Let it be . . .”」

この言葉が彼女の頑なで、「行動ありき」の心を、そして自分でなんでもかんでもやる、という殻を溶かしていったのです。安息日は神からの贈り物ですからそれを下さった神を身をかがめ拝す以外にはなかったと彼女は語りました。

イザヤ 58:13-14に驚くべき言葉が出てきます。

「もし、あなたが安息日に出歩くことをやめ、わたしの聖日に自分の好むことをせず、安息日を「喜びの日」と呼び、主の聖日を「はえある日」と呼び、これを尊んで旅をせず、自分の好むことを求めず、むだ口を慎むなら、そのとき、あなたは主をあなたの喜びとしよう。「わたしはあなたに地の高い所を踏み行かせ、あなたの父ヤコブのゆずりの地であなたを養う」と主の御口が語られたからである。」

この58章では神の厳しい裁きの言葉が語られています。神を知りたい、神に義を求め、断食や儀式をこなす民に、心は神に礼拝しておらず、愛のないコミュニティーが作られてしまっていると神はイスラエルにイザヤを通して預言しています。

自力でなんでもやる、休息イコール堕落、人を裁く、そういう人に神は58章の最後で民に呼びかけるのです。安息日を「喜びの日」と宣言し自己中心、自給自足の信仰ではなく神を仰ぐ信仰を持つなら主が民の喜びとなる、そしてそれは民の繁栄に繋がる、と約束しているのです。

自給自足で神要らずのように振る舞うクリスチャンは実質的には無神論者と変わりません。何をしても喜びを持つことはできません。天地の造り主であり、信仰の創始者・完成者のイエスと繋がっていないからです。安息日こそ実質無神論という毒に対するワクチンであり、喜びが聖霊により満たされる時なのです。

でも安息日についてはたくさん疑問があるでしょう。一体どの日を安息日にするのか、勝手に決めていいのか、何をしてはいけないのか、あるいは何をするのか、一人でやるのか家族でやるのか、などたくさん細かい点が気になります。

今年はそういう点もすったもんだしながら取り組んでゆき、毎月の投稿で少し掘り下げたいと思っています。