ヨハネ第一の手紙 2:3-17
3 もし、私たちが神の命令を守るなら、それによって、私たちは神を知っていることがわかります。4 神を知っていると言いながら、その命令を守らない者は、偽り者であり、真理はその人のうちにありません。5 しかし、みことばを守っている者なら、その人のうちには、確かに神の愛が全うされているのです。それによって、私たちが神のうちにいることがわかります。6 神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。
7 愛する者たち。私はあなたがたに新しい命令を書いているのではありません。むしろ、これはあなたがたが初めから持っていた古い命令です。その古い命令とは、あなたがたがすでに聞いている、みことばのことです。8 しかし、私は新しい命令としてあなたがたに書き送ります。これはキリストにおいて真理であり、あなたがたにとっても真理です。なぜなら、やみが消え去り、まことの光がすでに輝いているからです。
9 光の中にいると言いながら、兄弟を憎んでいる者は、今もなお、やみの中にいるのです。10 兄弟を愛する者は、光の中にとどまり、つまずくことがありません。11 兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩んでいるのであって、自分がどこへ行くのか知らないのです。やみが彼の目を見えなくしたからです。
12 子どもたちよ。私があなたがたに書き送るのは、主の御名によって、あなたがたの罪が赦されたからです。13 父たちよ。私があなたがたに書き送るのは、あなたがたが、初めからおられる方を、知ったからです。若い者たちよ。私があなたがたに書き送るのは、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。14 小さい者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが御父を知ったからです。父たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが、初めからおられる方を、知ったからです。若い者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが強い者であり、神のみことばが、あなたがたのうちにとどまり、そして、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。
15 世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。16 すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。17 世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行う者は、いつまでもながらえます。
従うということ
今回のヨハネ第一の手紙の箇所では「命令を守る」つまり神に従うことにフォーカスがあたっています。あなたにとって従うことは自然に出来ることでしょうか?なぜ命令を守ったり、言うことに従うことに対してついついアレルギー反応を示してしまうのでしょうか?
おそらくこれまで歴史上の、また今日でもいわゆるリーダー達は人々に従順を求めてきたけれどもそのリーダーたちの思惑や意図は決して人々の益になっていたわけではありません。それを知っているので「従え」と言われると躊躇するのです。
また現代文化では個人の自由と自分の意思が強く押し出されており、誰に何を言われるのでもなく、自分は自分のやり方でやる、ということが高く評価される世の中です。「自分の心に忠実になろう」が人々の心にまず最初に浮かぶのでは無いでしょうか。
それに対して、キリストは自分に従うことを求めます。なぜでしょうか?それは私たちがキリストに生き、彼のうちにある時にこそ人間として最も繁栄できるからです。人生の喜びはイエスにおいて充実するのです。時には自分の思いに基づいてとった行動で喜びや幸せを勝ち取れるかもしれませんが、それは一時的なもので心の全てを満たしてくれるのはイエスだけです。
従うことにおいては、神は本当に信頼出来るか、神は本当に自分を愛してくれているか、という問いかけが重要です。第一ヨハネはこの点を明らかにしてくれています。
闇の中
9節に、「光の中にいると言いながら、兄弟を憎んでいる者は、今もなお、やみの中にいるのです。」とあります。ヨハネは、あたりを見回して、誰が闇にいるのかを見つけ出せ、と言っているのではありません。この言葉は自分に当てはめて自分を顧みるための言葉です。CAチャーチのシニア・パスターであるサム牧師はCAチャーチはどのように具体的にこの点についてもっと育つべきかと尋ねられ、インタビューにでこう答えました。
(抄訳は当ウエブ筆者によります。オリジナルのインタビューは https://youtu.be/lPHSAMT7GA8 をご覧ください。)
「お互いをもっと愛しあうような教会に育っていく余地はあると思います。CA教会だけに限らずどこの教会でもそうでしょう。ゴシップをしてしまったり悪口を言ってしまいがちですね。カナダでは特に人前では良いことについては何にでも人を賞賛し、讃えたりします。でも問題点や困った点についてははっきりと言わず心の中にしまいがちです。それは人と衝突したくなかったり個人的に対応したくないからでしょう。だから心にしまっておくのです。そして時にはそのことを他の人に打ち明けたりします。当の本人にではなく。ここでヨハネの言葉に私は賛同します。「みんな、お互いに言葉だけでなく、人前での形ではなく、心から愛し合うことに専念しましょう」と教会に語りたいです。ですから、許せないことがあったり、傷ついたことがあったりしたら、確かに深い傷があるでしょう、そういう時にそれらを愛と、恵み、そして真理をもってその当事者の方のところに行って打ち明けるのです。「私はあなたと和解したいのです。お互いの心を平安に持ちたいのです。キリストが愛するように私はあなたを愛したいのです。」と持ちかけるのです。私がこれまでも言ってきましたが、私たちは何か人との痛みを抱えた時、速やかにそれをお互いに解決するようにするべきです。罪をお互いに言い表すのです。これを全て愛という枠組みの中でするのです。」
I think as a congregation maybe we have space to grow in love for one another. I don’t think this is specific to our church, but I think it includes our church. It’s easy to gossip about one another to speak ill of one another. As Canadians, we’re quick in front of someone’s face to celebrate them or applaud them for everything to be good. But then we harbour things in our hearts to not actually deal with issues or deal with problems because we don’t want the conflict or we don’t want the interactions. We just kind of harbour things. And then sometimes talk to other people about those things rather than talking to the person. I want to echo John’s words and tell our congregation, “Let’s commit to loving one another not only with our words and in front of one another’s faces but in our hearts.” So where there is unforgiveness, or there has been hurt, and that hurt can be real, we actually bring that to the person in love and in grace but also in truth and say, “Hey I want to be at peace with you. I want to really love you as Christ loves.” You’ve heard me in this way, but I think we need to get really good at keeping short accounts with one another at bringing hurts to one another, at confessing sin to one another. Do all this within the context of love.”
Pastor Sam Romijn, CA Church Group Discussion Video, https://youtu.be/lPHSAMT7GA8
世を愛する
16節に「すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢など」とあります。現代風にいうなら、お金、セックス、そして権力、という三つでしょうか。
どうしたら真理に従い偽り・闇に陥らないように出来るのでしょうか?この三つよりもあなたはイエス・キリストを求めるでしょうか?おそらく人によってこのうちのどれかが他よりも大きな誘惑かもしれません。自分は今どういう状態でしょうか?自分が神に許してもらいたい、と願っているかどうかがそのバロメーターです。
イエスに近づけば近づくほど、この三つからくる自分の罪が暴かれます。その時どうするでしょうか?神はすでにこう語ります。「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」ヨハネ第一 1:7-9
もし罪が苛むのであればそれはイエスに自分が向いている証拠です。許しの祈りを捧げましょう。