「神様、そんなの不公平だ!」って思ったり、祈りのうちに嘆いたりしたことはあなたもあるのでは無いでしょうか?まさしくこれが私のリアクションでした。神様の主権について、頭ではわかっていながら心では受け入れていなかった自分に気づいたのです。そのことについて想わされたことをシェアします。

先週の水曜のことです。パンデミックの第二波が当地にもやって来て、感染者数が急激に増えて来ていました。公衆衛生命令は夏頃から緩和されており、教会の日曜礼拝も50名の定員で開催出来ていたのですが、今回の公衆衛生命令により、教会を始め宗教的な礼拝は全てロックダウンされてしまいました。

これまで、新規感染者数が上昇していても、教会では感染対策をしっかり守り、安全に礼拝を守って来ました。「バブル」と呼ばれている時間・生活を共有しているグループも安全に集まったり、ソーシャライズすることが出来ていたのですが、今回の発令はそれらを全て制限したものだったのです。

何で「不公平だ」、と思ったかと言うと、教会は神様に従い、地元の公衆衛生局の指導要領に沿って活動して来たのに、何で神様は特に安全に集まれていて、信仰を強め、コミュニティーを築いて行く礼拝をシャットダウンすることを許したのか、と「不公平だ」と嘆いたのです。他の制限はいいけど、大事な礼拝まで制限なんて、と思ったわけです。

ガッカリし、神様に対して少し苦々しく感じていました。その晩のスモールグループのズームを通しての集まりではローマ書の9章を学びました。

火曜日までに、すでにビデオ教材を学び、聖書の箇所を読み、ふんふんと理解していたつもりでした。ところが水曜にロックダウンの発表があり、そんな学びの内容はすっ飛んでしまいました。

パウロはこう書いています。

それでは、どううことになりますか。神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。

ローマ書 9:14

パウロは9章において、神様の絶対なる主権について語っています。イサクとイスマエル、ヤコブとエサウの出生を例にひき、神様の主権は人間の考えや行動、あるいは血筋には一切拘らず、神様が決めた通りになる、ということなのです。そして、14節で、「神に不正があるのですか?」と尋ねます。9章を読み進めて来た者たちは、心の中で、「確かに不公平だよな」と思っていたかも知れません。しかしパウロは、「絶対にそんなことはありません。」ときっぱりと語るのです。

私の中のもやもやした、落胆と苦い気持ちはとどのつまり、神様の主権に文句を言っていると思ったのです。このローマ書に書かれていることは、数日前まではスラスラと頭に入っていたのですが、その日は、この主権については、心でわからないとダメだ、と思いました。

そしてグループとの会話や、祈り、そしてクールになった頭を使いもう少し考えてみたのです。翌朝にはこんな風に思えました。

「このパンデミックを通して、確かに色々な制限や不都合なことがあるけど、神様は決してその手を休めたり、私たちをほったらかしにしていたのでは無いんだ。」

私の通う、そして職場のCA Church では、礼拝に共に集い、賛美する機会は激減しましたが、会衆みんな、同じ主を見上げていることには何ら変わりは無いのです。会衆からの金銭的な捧げ物はこれまでずっと変わらず与えられて来ました。それどころか、より多くの献金が会堂基金やミッション宛に捧げられて来ているのです。

教会で開催しているアルファ・コースには毎回未信者が多く集まり、キリストを信じる方達が出ています。信仰を強められた者たちも多くいます。パンデミックのため海外宣教のチームはサポートしている地域を訪問出来ませんが、財政面でのサポートは会衆からの尊い献金によって継続できています。ローカル宣教チームにとっては新しい宣教活動のドアが開きました。パンデミックの影響を受けている地元の難民や低所得の方々のサポートとして食料品の無償配布を3月からずっと行って来ています。当初は決められた食料品を一律配布していたのが、様々な道が開き、現在は品揃えがより充実して来ており、サポートされる方々が自分で食料品を選べる、というところまで来ました。普段から普通に食料品を買っている自分にはピンとこなかったのですが、支援を受けねば食べ物に困る、という人たちにとって、自分で選べる、というのは大きな励みになるとチームリーダーから伺いました。

普段なら参加しない方たちもオンラインなら、ということで聖書研究のコースに熱心に通っています。テクノロジーのおかげで、スモールグループも継続でき、信仰の友と過ごす励みの時になっています。ソーシャルメディアに強い若者や青少年層は相変わらず上手にコネクトしています。

神様は教会に集う者たちを通して、そのあわれみの働きを続けておられるのです。パウロはこう書きます。

神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。

ローマ 9:24

神様は人々を救うため、たゆまず働かれておられるのです。その働きの一役を担えるとすれば、それほど喜びに満ちたことは無いのです。神様はあわれみに満ちたお方だからです。自分の限られた考えや視点に基づく「公儀」を追求するのではなく、この神様のあわれみを感謝し、その働きに携わることが何よりだ、と分かったのでした。

イエスが語ったこの言葉を思い起こします。

「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」

イエスは書を巻き、係りの者に渡して座られた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。

イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」

ルカ 4:18-21

もちろん、全てオッケーということでは到底ありません。パンデミックの影響で疎外されたり、隔絶してしまっている人たちは多くいます。道が開かれればぜひ神様の導きに従って進みたいと願います。