固唾(かたず)をのんで何を待ち望むのか?
私たちには神の全てを解き明かすことも、神の動きを理解したり、神を型にはめることなで出来ません。そういうことを見極めようと目を凝らし、固唾を呑んで待つのではないのです。私たちが信仰によって神に目を向けるときには何を望んでいるのでしょうか?今日の箇所からわかるのは、私たちは神のあわれみを乞い願い、いつあわれみが与えられるか待ち望んでいるのです。
私たちには神の全てを解き明かすことも、神の動きを理解したり、神を型にはめることなで出来ません。そういうことを見極めようと目を凝らし、固唾を呑んで待つのではないのです。私たちが信仰によって神に目を向けるときには何を望んでいるのでしょうか?今日の箇所からわかるのは、私たちは神のあわれみを乞い願い、いつあわれみが与えられるか待ち望んでいるのです。
このことばを意識的に信じると決心して、あとは神様に任せると言う企画を建てて見ませんか? そうする事によって
神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいま 続きはこちら
だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。
「特権」という言葉にはネガティブな意味がありますが、何とクリスチャンの世界では特権はへり下ることに直結しています。どうなってるのでしょうか?
先日読んだ詩篇の箇所にこう書かれています。英語で紹介します。日本語訳だと同じ「喜び」と訳されている言葉に対して、英語だと三つの違う単語が使われていました。えっ何で?と気を惹かれました。興味が湧いたのです。
主イエスのことば程あって、この聖句もまた心の重みを取り去ってくれるものではないでしょうか?
聖書を読み進めているともうよく知っている箇所で新しい教えを受けることがあります。デボーションにTim Kellerの “The Songs of Jesus” と言う詩篇からの教えと祈りを読んでいるのですがそこからハッと想わされたことをシェアします。
今日は詩篇80篇から想わされたことをシェアします。詩篇は歌・詩ですから当然ですが、様々な讃美歌、聖歌、ワーシップソングなどのインスピレーションとなったり、文字通り歌詞が詩篇から取られているものも多くあります。教会によっては礼拝において詩篇をそのまま歌うところもあります。
人は自分の心と言葉を管理する事は簡単ではありません。それでも、愛する主イエスの御前に喜ばれるものである事を願うなら、聖霊が助けてくださる事は確かです。