先日、長らく教会で共に過ごした、私の敬愛する方とのeメールのやり取りから想わされたことをシェアします。こうメールに書かれていました。
Sometimes, in the thick of ministry, we fail to realize what a blessing it is to have had this privilege of the opportunity to serve.
「教会の宣教活動に邁進していると、神様に仕える機会という特権があったことは、なんと恵深いことであろうか、ということを失念することがあります」とおっしゃるのです。このかたご夫婦はもう何十年も牧会や宣教に携わってきていました。全身全霊を傾け、救霊のために熱意を注いでおられたのです。現在第一線からは退かれております。そんな彼らのこれまでの働きを振り返るならば、その時は気づかなかった、イエスに仕える機会という特権が神様から恵みとして与えられていたんだ、と教えてくれたのでした。
「特権」というのは大抵ネガティブな意味で使われるでしょう。特権階級、と聞くと自己中心で自惚れの強い、人を見下すそういう人たちのことが頭に浮かびます。
しかしこの方からのメールにはこうも書かれていました。
“It is your humble, willing heart and the desire to be used by God that brings such privilege.” 「あなたが謙虚に、前向きの気持ちで神様に使ってもらいたいと願うことこそがそのような特権をもたらすのです。」
神様の世界はアップサイドダウン、つまり天地がひっくり返っているのです。特権は偉いからもらえるのではなく、神様から不思議にも与えられるギフトです。特権と謙遜が関連するなんて、普通はありませんね。
「privilege」という言葉に想い巡らせているとある有名な讃美歌を思い出しました。”What a Friend We Have in Jesus – 「慈しみ深きともなるイエスは(讃美歌312番)」、あるいは「つみとがをにのう(聖歌607番)」です。特権には「幸い、恵み」という意味があるのです。
What a friend we have in Jesus, all our sins and griefs to bear!
What a privilege to carry everything to God in prayer!
O what peace we often forfeit, O what needless pain we bear,
All because we do not carry everything to God in prayer!
聖歌607番ではこう歌います。
つみとがをにのう ともなるイエスに
うちあけうるとは いかなるさちぞ
やすきのなきもの なやみおうもの
ともなるイエスをば おとずれよかし
“What privillege”「いかなる幸ぞ」なのですね。自分の全てを知り尽くされているお方に心を開け、自分を空け渡すこと、それは強制でも特別の儀式でもなく幸いなことです。そしてそこに神様からの目的と導きがあり、後から振り返ればそこには「いかなる幸ぞ」と想わされる恵みの歩みがあるのでしょう。
その方からのメールにはペテロ第一の手紙からの引用がありました。謙遜にこそ恵みが与えられることがはっきりと書かれています。
「みな互いに謙遜を身につけなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」
ペテロ第一の手紙 5:5b-6