オズ・ギネス氏はクリスチャンの神学者ですが、その著書、Fool’s Talk: REcovering the Art of Christian Persuasion の中で、18世紀の俳人、小林一茶の逸話を次のように語っています。

 

「一連の悲しい出来事を通して、一茶は妻と5人の子供を全て失ったのです。 その度に、一茶は禅僧を訪ねました。そしてその都度、同じ慰めの言葉を受けたのでした。それは、「世は露なりと心得よ。」というものでした。露はうつろいゆく、はかないものだ。朝日が昇ると露は消え去る。この幻の世においては、苦難も死もうつろいゆくものなのだから。世は露なりと心得よ。自分を世からもっと切り離し、悲しみを引き延ばす悲嘆の気持ちにかかわることから脱却することが肝要だと。

一茶はその後また子供を亡くし、結局慰めを受けることなく家路についた。彼は最もよく知られる俳句のひとつを詠んだ。

露の世は
露の世ながら
さりながら

 

また、この句に関して、姫路の大覚寺の僧侶はこう解釈しています。「長女さとが疱瘡で死んだ時に詠んだ句です。信心深い一茶でしたから、この世は露のようにはかないものだと知ってはいても、それでもやはりあきらめ切れない親心がにじみ出た句です。亡き子を思う親の切なさが胸を打ちます。」
(http://www.daikakuji-himeji.jp/sermon/2012-11.html)

 

悲哀、諸行無常、仕方がない、などの言葉が心に浮かびます。結局一茶は求めていた慰めを受けられなかったのではないでしょうか。

 

「困難は天賦の、乗り越えるべきチャレンジだ。」

「苦難は全て気の持ち方次第でなんとでもなる。」

「苦境の存在を否定し、脱却するのが生きる目的である。」

「七転び八起き。頑張れ!」

というように奮闘するのは、結局くじけたり、一茶のように悲嘆と失望、虚無感と喪失感の中に一縷の光、露のきらめきのように、消えゆくはかない望みを見つけだそうともがくのと似ていると思います。

 

CA Church の David師は上述のオズ・ギネスによる一茶のストーリーから関連し、こう語ります。

「クリスチャンとして心に思わされることは、痛みはまぼろしではなく、現実にあることだということです。痛みは苦痛です。しかし、イエス・キリストの苦難、死、そして復活があるからこそ、私達には慰めがあります。どうしてでしょうか?なぜなら、イエスは私たちと苦難の中で出会ってくれるからです。かれのいのちにあって、私達も生きてゆけるのです。」

This story reminds me that as Christians, suffering is no illusion, but it is real. It is painful. Because of the suffering, death, and resurrection of Jesus Christ, we are consoled. Why?  Because He will meet us in suffering.Because He lives, so will we.

 

イエスが共におられる、ということが決め手なんですね。 イエスは、聖霊、すなわち三位一体の神の一位ですが、はすべてのクリスチャンに与えらえる、と説きます。イエスは聖霊を「慰めぬし、代弁者」と表現しています。つまり、聖霊が慰めの本質を持つ神です。その神が共におられ、ともに歩み、いのちを与えてくれる、と聖書は教えてくれます。

 

アルファ・コースにも出て来ていますが、聖霊、つまり「慰める方」という言葉の聖書の語源は「寄り添う者」という意味です。 ニッキー・ガンベル師は、荒波にもまれてもがく小舟を助けに来た大きな船が、小舟に寄り添うように安全な港に導いてくれる、これが「慰めぬし」の言葉の意義だ、といいます。神ご自身が、人生の荒波にもまれる私たちに寄り添い、共に歩み、強めてくれるのです。

 

カリビアン、アメリカ東南部沿岸のハリケーンによる災害、メキシコの大地震の震災、テネシー州の教会での銃乱射、世界には悲劇、悲惨、苦難、は数えきれません。 願わくばこの痛みの現実にあって、生きている主が寄り添ってくれることもまた現実であり、そこに希望が生まれますように。 慰め主である聖霊を宿しているクリスチャン達が、苦しみにある方たちに、ぜひ寄り添えるよう強めて下さい、と祈ります。