「霊」という言葉を聞くと何を連想しますか?私は「怖い何か」を連想します。古い英語では聖霊のことを「ホーリーゴースト」聖なる幽霊!と名付けられています。今でも教会によってはこの単語を使っているそうです。まあ、ホーリー(聖なる)という形容詞がついているのでああ良い霊かなと思うでしょうか。

三位一体の神について学ベば学ぶほど畏敬の念が深まるでしょう。それと同時に人間の自分に何がどこまで分かる?という疑念や自分の取るに足らなさを実感するかもしれません。

今回のシリーズはCAチャーチでペンテコステ:聖霊降臨に合わせて六週間の説教シリーズをしたものを基にして聖霊について学んで行きたいと思います。日本語バイブルスタディーもルカシリーズが使徒の働きに入り、聖霊がどのように教会の立ち上がりを導き、世界に福音が伝えられているかを学び始めました。現代の私たちも信仰の道を聖霊に導かれて歩んでいるのですから、聖霊について学ぶことは間違いなく信仰を深めることに繋がります。

「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」ヨハネ 14:16-17

聖霊って何?

「何」というのは神学的に誤っています。「誰」が正しいでしょう。イエスは弟子達に「もう一人の助け主」と聖霊のことを紹介しています。聖霊なる神はどんなお方なのでしょうか。様々な観点から聖霊について考えることができるでしょう。しかしどのように見るにしても、落とし穴が同時に存在します。

聖霊は「力」だ、という見方があります。確かに聖霊は力強いですし、イエスも「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます(使徒1:8)」と語る通り力を与える方です。しかし、聖霊を何かをするのに必要な力としか考えないとそれは聖霊を目的のための手段と考えていることになります。

聖霊が不思議なしるしやわざを行えるようにしたり、教会を建てあげる賜物を与えます。しかし聖霊は能力を与える方であるとだけ考えるのも不十分でしょう。クリスチャンも陥りやすい罠は、賜物があることが権威の如くふるまったり、「自分には。。。の賜物がないので。。。はできませんよ」などと言い訳の手段に使われるとすればこれも少しズレているでしょう。

聖霊は罪から人を清めるともいいます。しかし罪の清めだけを聖霊に求めるとするなら、フォーカスが罪をどうコントロールするか、罪のマネージメントにだけ気を取られてしまうでしょう。すると知らず知らずのうちに他者を審く律法主義に陥ってしまいます。

聖霊が私たち人生に細かく関わっており、導くお方です。から常に聖霊に意思決定を頼りたいと願うでしょう。「聖霊によって促される」行動を常に取りたいと願うでしょう。しかし極端になると何も決められず神の大きなストーリーを見逃してしまうかもしれません。

共におられる

私たちにとって重要な聖霊の働きはいつも私たちを神の御前に導いてくださるということではないでしょうか。「共にいます」というイエスの臨在にいざなってくださるのです。四つのことが言えると思います。

  • 神の臨在に気づかせてくれる
  • イエスとの個人的な関係に導いてくれる
  • イエスにますます似たものに変えてくれる
  • 神に愛されていることを深く知ることができるようにしてくれる

聖霊が見える目を、聞こえる耳を、そしてあなたの人生にいつもいてくださるお方に呼応する開かれた心を与えられるよう祈り求めましょう。