先日、教会スタッフの朝の祈り会で、「聖人たちの生き方を読んでみると、確かに多くを効率よく達成したが、同時になんと自由な余暇の時間を彼らは持っていたか、ということに驚きを覚える」という、少々不可解な文に出会いました。

普通は、何か大きなことを達成する人は、常に弛まず努力し、気を抜かずに切磋琢磨するのでは、と思いますね。特にキリスト教会で聖人と言われる方達であれば尚更、だと思ったからです。

この言葉は、1921年に出版された、Emily Herman のCreative Prayer という本の中からの引用でした。(引用された箇所の抄訳はこの投稿の最後に掲載しておきました)

その朝はデビッド牧師がリードし、「レクティオ・ディヴィナ」という伝統的な修道院の実践する方法に基づいて、聖書を読み、心を向け、思索・自省し、神様のみこころを祈り求めたのです。

デビッド牧師が選んだ聖書の箇所はエレミヤ書6:16 でした。集まったスタッフ達はこの箇所を読み、かみしめるようにして自分にこの箇所は何を語っているかを模索したのです。

その朝の祈り会はまさにレジャーな時と空間だったのです。誰一人、聖書を読んで味わおうと全力疾走しませんでした。ゆっくりと時間をかけ、自分と神様が対話する空間を持ったのです。まさにこれは豪華な余暇、自由な時間でした。

Emily Hermanは、聖人達の素晴らしい業績の秘訣は、何事にも、事の大小に関わらず、いつも神様に探り求め、神様の内に生きていたことにあった、というのです。ですから、柔和に、さりげないようでいて、大きな影響を与えるような業績を残したのです。

さて、そのエレミヤ書 6:16 からレクティオ ・ディヴィナを通して神様は何を私に語ったのでしょうか?少しだけシェアします。

主はこう仰せられる。
「四つ辻に立って見渡し、昔からの通り道、幸いの道はどこにあるかを尋ね、それを歩んで、あなたあたのいこいを見いだせ。」
しかし、彼らは『そこを歩まない』と言った。

“This is what the Lord says:

“Stand by the ways and see and ask for the ancient paths,
Where the good way is, and walk in it;
Then you will find a resting place for your souls.

But they said, ‘We will not walk in it.’”

エレミヤ書 6:16

デビッド牧師はまずスタッフに、この箇所を数回音読されるのを聞いて、どの単語やフレーズが心に留まるか考えてみよう、と促しました。そして、その言葉が自分にとってどんな意味を持つか考えるように勧めてくれました。そしてそれを神様に祈りとして持ちかけ、神様にこの語りかけについて自分が何をするべきか導いてくれるように祈り、その導きに従う決心をしましょう、と皆を励ましました。

私の心に留まったのは、「立って」”stand” という言葉でした。神様は自分に、「座ったり」「楽したり」「惰性にまかせて進む」のではなく、しっかりと立って、行動する準備をせよ、と語ったのだと思いました。

自分の息子くらいの年齢の、若くて有能なスタッフに囲まれて、「スローダウン」して、どんどん「お任せ」という誘惑が確かにあります。年齢的に、新しい世代にバトンタッチして、なんて考えていたからです。

確かに、年齢に応じて具体的な役割も責任も変わってきます。しかし、それは決して「楽」して過ごす事は意味しないのです。

じゃあ具体的には何すればいいかな、と神様と祈りながら対話していたら、神様はこの朝ペテロ第一の手紙の言葉を思い起こさせてくれました。

「ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現れのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。」

ペテロ第一 1:13

特に最初のフレーズ、「心を引き締め」という言葉が与えられました。昔の人々の服は日本の浴衣みたいに帯を閉めて着ていたようですが、浴衣を着たことのある人はわかると思いますが、浴衣姿で走るのは結構大変です。よく時代劇で着物をたくし上げて帯に挟み込み、それで両足を自由にして走るのをみたことがあるでしょう。そんな光景をこのペテロの箇所ではいつも思い出します。 神様が、「レッツゴー」とか「よしこれが君のするべきことだ」という掛け声をくれるときに、私の心の準備は、浴衣の裾をすでに帯にたくし上げている状態でなければならない、と神様は語ったのでした。

ですから、スローダウンして、ちょっと見物客的にリラックスしようなどとは到底考えてはいけないのです。今もこれからも常に道の脇に立ち、さあ次に何が来るのか、どこの道を走るのか、と神様の導きを目を凝らし、心を向けて、弛まず準備していないといけないのです。

そこで冒頭の言葉です。つい、頑張ろーなどということで締めくくってはいけないのです。心の帯をしめ、いつでも準備完了にするには、ゆっくりと、実のある豊な時間を神様と持つ事こそが秘訣なのです。レジャー大賛成。神様とのレジャーは全ての信徒が求めるべきことなんだ、と想わされたのです。


Lives of the Saints

「聖人達の生き様の姿を読む時、その活躍ぶりには本当に、目を見張るほど、なんでも上手に効率よく成し遂げたものだ、と感服させらます。それと同時に、彼らの人生には、なんと余裕のある、余暇の時間がかなり多くあったと見受けられます。これは驚きです。彼らは決してあくせくしなかったのです。また、達成したことも、比較的、数は限られたことだけ成し遂げなかったのです。しかも、その多くは必ずしもすごいことでも重要なことでもなかったのです。彼らがどんな影響をもたらしているかなどという評判には無頓着でした。それでも、いつも的は外さなかったのです。彼らの行動は単純ですが、メリハリはしっかりあります。まるで芸術家の技のように緻密で細かいところまできっちりと出来ているのです。なぜそうなのでしょうか?その理由はすぐそばにあります。それは、彼らが、どんなに小さい行動でも、習慣的に、神様のみこころに委ねていたことが理由です。それが彼らの聖人たる理由でした。神様の内に生きていたのです。彼らの行動の原動力は、神様に対する純粋な愛でした。自分が他の人からどう思われるか気にしなかったのです。人から称賛されたいということに捉われませんでした。神様がご覧になり、神様が報いてくれたのです。ですから彼らには一体何が他に必要だったでしょうか?彼らには神様がおり、神様の中に彼らは捉えられていたのです。こうして、二つの普通なら相反すること、つまり聖人が柔和で静かでありながら、物質的に限られた中で生きていても、なんとも驚くべきほどに影響を持つことができた、ということが、切っても切れない二つの聖人としての尊厳となっていたのでした。」”When we read the lives of the saints, we are struck by a certain large leisure which went hand in hand with remarkable effectiveness. They were never hurried; they did comparatively few things, and these not necessarily striking or important; and they troubled very little about their influence. Yet they always seemed to hit the mark; their simplest actions had a distinction, an exquisiteness that suggest the artist. The reason is not so far to seek. Their sainthood lay in their habit of referring the smallest actions to God. They lived in God; they acted from a pure motive of love towards God. They were free from self-regard as from slavery to the good opinion of others. God saw and God rewarded: what else did they need? They possessed God and possessed themselves in God. Hence the inalienable dignity of the meek, quiet figures that seem to produce such marvelous effects with such humble materials.”

Creative Prayer by Emily Herman