今日は礼拝前の賛美の時にリーダーが引用した聖句にひっかかり、そこで想わされたことをシェアします。
教会では良く聞く聖書の言葉なので、つい、さらりと聞き流しそうな箇所でした。長年クリスチャンであり、教会にも関わっていると、「イエスの血の贖い」とか「罪の赦し」、「神の恵み」と言う言葉に鈍感になることがあります(私だけでしょうか?)でもその朝は、きっと神様が私の袖を引っ張って、注意を払うようにと促してくれたんだと思います。
さて、リーダーはNew International Version から次の聖書の箇所を引用しました。
” In him we have redemption through his blood, the forgiveness of sins, in accordance with the riches of God’s grace that he lavished on us.”
エペソ人への手紙1章7節
新改訳聖書ではこう訳されています。「この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。」
引用の中の “in accordance with” というフレーズに心が留まりました。新改訳聖書だと「よること」と訳されています。
「罪」とか「血」とか、「贖い」、とかではなくて、なんでそんな受験に出てくるような英語熟語にハッとするんだ、と思われるかもしれませんね。
でもなぜかというと、そのきっかけは、最近読んでいる N.T. Wright 先生の “The Day the Revolution Began” という本なんです。NT Wright は1コリント15:3 “in accordance with the Scriptures” 「聖書の示す通りに」という聖書の箇所を紐解いて、それが一体どういう意味を持っているか、なぜこの聖句が十字架を考える際に重要なのか、ということを説明しています。私は、その箇所のことを、賛美リーダーが引用した聖書の言葉を聞いた時に思い起こさせられたのです。
発刊の頃のChristianity Today 誌に掲載されたインタビュー記事(Mike Bird 氏との対談。2016年10月13日)でNT Wright はこう語りました。
「パウロは1コリント15:3で、この早期の段階で福音をかいつまんで語っていますが、こう書いています。『キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれた」と。「示す通りに」というのは言い換えれば、聖書の語る全ての事柄の流れに沿って、その頂点のこととして、そして預言されていた通りに成就した、ということです。」“Paul says in 1 Corinthians 15:3, quoting a very early gospel summary, that “the Messiah died for our sins in accordance with the Scriptures.” In accordance with—in other words, along the line of, as the climax of, in fulfilment of the entire scriptural narrative. …”
N.T. Wright in an interview with Mike Bird, Christianity Today, October 13, 2016
私は自分が聖書の原語にも、英語にも、そして日本語にも精通しているとは思えませんし、学術的な見地から語れませんが、その英語3文字、”in accordance with” には、NT Wright の言う、「流れに沿った、頂点となる、そして成就した」と言うニュアンスがあって、それが結構聖書の箇所を読むにあたって、ピンとくる感じだな、と思います。
このピンとくる訳し方を使いながら、最初に載せたエペソ人への手紙の聖句をもう一度考えてみると、こんな風に勝手にパラフレーズ出来ます。in accordance with という熟語のニュアンスを考えたとき、「自分、神様、天地創造、歴史、イエス様、十字架、いのち、人生、目的、。。。」そういう要素が頭の中にひらめいて来たように思いました。
「イエス様は自分の生まれる前から、と言うか、この全天地を創造された時から以来ずっと神様は恵みを注いでくれている。それが今まさに時が満ち、溢れでて、神様のみこころが成就した。それはイエス様の十字架と言う、そのかけがえのない贖いの完成だった。そのゆえに、自分は罪の赦しを受けた。イエス様は目的とアイデンティティーを与えてくれて、そのおかげで、自分には豊かな人生が与えられている。」
福音は単に神様が人間を助けるための分かりやすいくて都合の良い方程式や人生への教訓ではありません。救われたら、はいオッケー、では次の方どうぞ、と言うようなものでもありません。もっと深く、広く、そしてそのストーリーは天地創造以来続いているんです。そして私たち一人一人はそのストーリーに招かれているんです。
これに関連して、CA Church のDavid師やBrad師が良く引用する言葉があります。
「「自分は一体何のために生きているんだろう」と言う問いに答えるには、まずそれ以前の質問である「自分はどんなストーリーの中に存在し、どんな役割を担っているんだろう」と言う問いに答えなければならない」 “I can only answer the question ‘What am I to do?’ if I can answer the prior question ‘Of what story or stories do I find myself a part?””
Alasdair McIntyer
上手に言えないのでちょっともどかしいですが、in accordance with と言うフレーズがもたらしてくれた意義深さは、Alasdair McIntyre の語る神様の織りなす「ストーリー」が関わっていると思いました。イエスの福音はとんでもなく、ものすごい深みのあることなんだ、と想わされたのでした。