先週の日曜日から私たちの通う教会ではイン・パーソン・ギャザリングが二つのキャンパスで始まりました。バーチャルではなく、「生」で「直接」集まって開かれる礼拝が始まりました。イン・パーソンという単語は「生身の体において」つまりその場に物理的に存在して、ということで、例えれば、録画された動画を見るのではなく、生放送を客席から見る、という感じですね。 

人間関係も同じです。パンデミック対策でオンライン(ズーム、チーム、などなど)で個人的に画面を通して交流できるのは素晴らしいですし、アルファ・コースも上手にオンライン化し、オンラインはオンラインなりの特長や優れた点もあり、それがうまく活かせていると思います。でも、直接人とあって、同じ場所にいて交わることは何にも替えがたい、大事な人間としての活動であると思いました。バーチャルが増えれば増えるほど、イン・パーソンの体験の意味は深く、大きく感じられます。

最近の身近な出来事から「イン・パーソン」について想わされたことをシェアします。

「触れ合う」

バンクーバーの郊外、ラドナーに野鳥保護区があります。自然に囲まれた中で、様々な鳥達が生息しているそうです。毎年夏の恒例として私たち夫婦は野鳥と遊びに出かけます。ちょっとぶしつけなカナダ・ギースや、エサをまいているとあっと言う間に集まってくるアヒルたちがワンサカいます。アヒルはちょっと苦手です。わざと(?)近くで羽ばたいて見たり、怒っているような仕草をするので。

中でも、可愛らしく、いつもフレンドリーにしてくれるのがチカディーたちです。日本語名はアメリカコガラだそうです。(写真)

昨年は売店で買ったエサがあんまり好評でなかったので、今回は万全を期してチカディーのお気に入りのナッツを用意していきました。魚釣りに例えると入れ食い、というのでしょうか、チカディーたちは次から次へと餌を差し出す手のひらに乗ってくれました。

エサを取りに来る仕草や、手のひらにちょこっとのる感覚は本当に癒されますね。妻は、「あーあ、頭をなでさせてくれたらなぁ」と願っていました。ユーチューブなどで動物や自然の動画は山ほど見て、それはそれで楽しいのですが、やっぱりその場にいて、実際に触れ合いの交流(?)をするのは何にも勝る経験です。

先月ある朝、夫婦が教会に来ました。様々な事情から職を失い、引越しを余儀なくされ、頼みの綱のトラックも失ってしまった、助けて欲しい、という事だったのです。彼らはテント暮らしをしていたのですが、いく先々でトラブルに遭っていたそうです。何を手配するにもまだ朝イチだったので、コーヒーと紅茶、クッキーやら食べてもらい、数時間近くのモールに行って休む、ということになりました。移動手段は「徒歩」というので、バスのチケットやら乗り場やら説明しました。

教会の関係しているアウトリーチのサポート団体と連携して彼らはその日のうちに簡易シャワー、食事サービスなどを受ける事ができ、長期滞在のできる安全なシェルターへの道も開きました。その日教会に荷物を取りにきた彼らは、シャワーと新しい服で見違えるようになっていました。何より笑顔がはちきれんばかりでした。

ご主人が「どうもいろいろありがとう」と握手の手を差し出したのです。パンデミック対策で人との距離を2メートル、ハイタッチではなく肘タッチ、などとしていたことはその瞬間忘れて、彼の手を握り握手を交わしました。なにか、忘れていた「触れ合う」素晴らしさを味わいました。

双方通行

イン・パーソンにおいて、共有する励ましや喜びはの度合いはバーチャルよりも深く、広く感じられます。

教会の有志たちと、毎月一回、地元の老人施設へ訪問して、教会の礼拝を開いていました。パンデミックの制限が始まり、3月から訪問できなくなっていました。家族すら面会禁止となってしまったのです。制限が少しづつ解除され、先月末、施設のすぐ外にあるガーデンからなら訪問がオッケーになり、早速訪問させてもらいました。施設のテラスには15人程度のシニアが集まって、私たちとの距離は結構ありましたが、おかげで大きな声で賛美も出来、賛美歌を歌い、聖書を読み、励ましのメッセージをシェア事ができました。

毎月参加していたシニア達もおり、本当に感謝な事でした。

訪問の後、奉仕してくれた方の一人が、こう言ってくれました。(和訳は筆者)

「この訪問のおかげで、パンデミックやら何やらでイライラしていた日常から解放された感じがしたわ。利用者の人たちがあんなに集会に集中してくれて、楽しそうにしていたのを見れた事が何よりの私の喜びだったわ。」

ロックダウンの中、訪問してくれる人の時間も限られ、辛い生活をされているだろうと推察し、教会のほんの30分の礼拝を一緒に出来れば、という願いで訪問をリードしていたのですが、神様からの天のめぐみは、利用者の方に流れただけでなく、訪問した私たちにも流れていたのです。めぐみがあっちにもこっちにも双方交通で流れていたんだ、と思いました。

ガーデン・ビジット

イマゴ・デイ

教会の牧師がある時、こんなストーリーをシェアしてくれました。

「目の前の急流を渡らねばならない時、君ならどうする?自分に自信があるものは自力で渡ろうとして流れに負ける。しかし、一緒に力を合わせて渡ろうと思う者達は手を繋ぎ、一歩一歩共に歩み、流れに負けずに対岸にたどり着くんだ。人生のチャレンジも同じじゃないかな。」

神様が私たちを創造したのは神様の似姿、イマゴ・デイ、としてでした。神様は三位一体ですから、私たちも「個人」で生きるのではなく、「コミュニティー」で生きるのがそもそもの神様の創造のみわざです。パンデミックの制限の中、コミュニティーを生きるのには様々な工夫が必要になっています。バーチャルも大事な要素ですが、決してバーチャルはイン・パーソンにとって替わるものではありません。常に追い求めるべきは、より深きコミュニティーの姿なんです。イン・パーソンが鍵だと思います。

イン・パーソンの時・場所は今後もおそらく限られていく事でしょう。だからこそ、人との触れ合う機会、時と場所を共有するコミュニティーの中で生きていくことをかけがえのない時として、ますます大事に、味わいつつ、感謝していきたいですね。