フィギュアスケートペアで日本史上初のオリンピック金メダルを獲得した木原・三浦選手たちは競技中もインタビューでも、オフでも、よくお互いの顔を見合っています。気づいたらお互いに顔を見合っているそうです。世界最高の結果が出るのは信頼とか絆、という言葉で表現されています。仲がいいお二人ですからお互いに見つめあってもそれはますます信頼を深めているのでしょう。
ずいぶん昔になりますが、私の勤め先の教会のスタッフが二日間のコーチングセッションに参加したことがあります。プロのコーチの方から色々と教わったのです。初日の最初のエクササイズは自分と組んだパートナー(なんと私のボス!)と向き合ってお互いをじっと1分間見つめ合いなさい、というものでした。あの時ほど気まずかったことはありませんでした。(しかも笑ってしまわないようにです)相手のボスはどう思ったかは知りませんが、私は見つめられるのは苦手です。結局どうしてそんなエクササイズしたか多分説明してもらったでしょうが覚えていません。(笑)
上司に見つめられるのは結構ぎこちなかったです。ましてや神様に見つめられたらどうでしょうか?
福音書にはイエスが弟子たちを「見つめられた」というようなことが良く出てきます。先日CAチャーチのBrad牧師が投稿したブログにもイエスから見つめられている、というような表現が出てきました。自分的には「見つめられる」ということはなんとなく居心地が悪いな、と思いました。自分はなんかジャッジされているような気持ちになるので居心地悪く感じます。
Brad牧師の投稿したブログのタイトルは、”Seen Into Being” つまり、見つめられることから存在へ、というような意味です。ソーシャルメディアなどのスクリーン越しの世の中、他人のことを見つめる、消費することは日常茶飯事の現代です。でも、自分は誰からも見つめられていない、孤独だと感じるのです。解決はあるのでしょうか?そんな内容のブログでした。見つめられること、じっと眼差しを受けることは、それがキリストならば、自分の存在意義に大きく関わるという内容です。むむ?と思い読み進めました。
投稿はこのように締めくくられていました。
Experiencing a reality of unseen-ness is no small thing. Do I matter? Am I known? To stand before Christ (whether in prayer, in Scripture,…is to entertain a reality where that question is answered. With a presence. You are seen. You are known. You are loved. And that gaze (steady, unhurried) does the very opposite of diminishing you. It welcomes and expands your story. … And it is in being seen that we begin, slowly, to understand who we are. 誰からも見られていないという現実を体験することはちょっとやそっとなことではありません。自分には価値があるのだろうか?誰か自分のことを知ってくれているんだろうか?というようにです。 しかし、キリストの前に立つということが(祈りとか聖書を通してなど)そういった質問に実は答えが与えられている、その現実を味わうことになるのです。イエスがそこにおられる、という臨在によってです。イエスあなたをじっと、落ち着いた眼差しで見つめるのは、あなたのことをとるに足らない者だという声とは真逆のものだからです。それはあなたを、あなた自身の人生のストーリーへと招き導き入れ、あなたのストーリーを広げていってくれるのです。。。。見つめられることによって初めて私たちは少しづつゆっくりと自分が何者なのかわかっていくようになるのです。」
Brad Strelau, “Seen into Being” 全文はこのリンクから(和文訳は当サイト筆者の抄訳)
見つめられ、知られ、そして愛されている、この三つの「られる」はイエスにおいてのみ完全にされています。ただ観察されて評価されるのなら常に不安に陥ります。知られているだけなら本当に自分の存在が大事かどうかわからずやはり不安に陥ります。しかし十字架のキリストはその愛を持って愛してくれていることを「見つめて」証ししてくれているのです。イエスの眼差しを受けることは自分を矮小化したり卑屈になることではありません。見つめられることでわかるのは、イエスが自分を創造し、すべてご存知で、十字架の愛を示しているんだという現実です。自分の存在意義が確固たるものとなります。もはや他人の定義する自分ではなく、イエスと共に生きるという自分のストーリーが展開するのです。
