ピリピ 1:3-11

3 私は、あなたがたのことを思うごとに私の神に感謝し、4 あなたがたすべてのために祈るごとに、いつも喜びをもって祈り、5 あなたがたが、最初の日から今日まで、福音を広めることにあずかって来たことを感謝しています。 6 あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。 7 私があなたがたすべてについてこのように考えるのは正しいことです。あなたがたはみな、私が投獄されているときも、福音を弁明し立証しているときも、私とともに恵みにあずかった人々であり、私は、そのようなあなたがたを、心に覚えているからです。 8 私が、キリスト・イエスの愛をもって、どんなにあなたがたすべてを慕っているか、そのあかしをしてくださるのは神です。

9 私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、10 あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。またあなたがたが、キリストの日には純真で非難されるところがなく、11 イエス・キリストによって与えられた義の実に満たされている者となり、神の御栄えと誉れが現されますように。

学びを進めるに当たって

このピリピ書からの手紙は、Frank Thielmanによる注解書、Philippians (The NIV Application Commentary Book 11 を通して当ブログ筆者が学んだことを中心にシェアさせて頂いています。

感謝の祈り(3-8)

「喜びを持って」祈ることはこのピリピ書の根底を流れる喜びに通ずるものがあります。パウロが喜びを持って祈れるのには二つの理由があります。

(1)「あずかってきた」

ギリシャ語の語源は「コイノニア」です。共有する、共に担う、と言う意味です。パウロは同じ語源の言葉を数回ピリピ書で使っています。Theilmanは「パートナーシップ」と解釈するのが良いといいます。4:14, 4:15 あるいはコリント第二 8:2 にあるようなパウロへの宣教に対して惜しみない支援をしているピリピ人を宣教のパートナーと考え、それゆえ喜びを持って祈るのです。

「14 それにしても、あなたがたは、よく私と困難を分け合ってくれました。15 ピリピの人たち。あなたがたも知っているとおり、私が福音を宣べ伝え始めたころ、マケドニヤを離れて行ったときには、私の働きのために、物をやり取りしてくれた教会は、あなたがたのほかには一つもありませんでした。16 テサロニケにいたときでさえ、あなたがたは一度ならず二度までも物を送って、私の乏しさを補ってくれました。(ピリピ書 4:14-16)」

(2)神が良い働きを完成されるという確信

神の救いの「良い働き」は神のみが成し遂げるわざであり、完成するのはキリストの日であるということは、信者達が日々造り変えられて行くことを示しています。「 神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。(ピリピ 2:13)」と書かれている通りです。パウロはこれは「恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい。(2:12)」と言います。パウロは自分についても「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。(ピリピ 3:12)」と書いています。

パウロがピリピ人に感謝をしているのは彼らがパートナーとして福音の宣教のための物質的な支援をしてくれているからのみならず、神の働きが彼らの信仰の歩みに確固として見受けられるからです。そして、神がそれを達成してくださると確信しているからです。彼らが神による救いの良い働きによってキリストの日に完成されることに喜びを持っているのです。

とりなしの祈り(9-11)

パウロはピリピの教会が一致して霊的に成長することを願っています。そしてそれを念頭においてとりなしの祈りをします。

(1)9-10節

真の知識と、あらゆる識別力によって愛が豊かになるように、と書かれています。

Thielmanはこうまとめています。

Paul’s basic request for the Philippians, in other words, is that they might express their love in ways that show both a knowledge of how to obey God’s will generally, and, more specifically, of how to make moral decisions based on God’s will in the give-and-take of everyday living.

パウロがピリピ人に基本的に願っていることは、言い換えれば、彼らが愛を示すことができるように、ということです。それは彼らが一般的にいってどのようにして神の意志に従うべきかという知識において愛が示されるようにということであり、さらに、神の意志に導かれて、道義的に正しい選択をするにはどうするべきかということにおいて愛を表せるように、ということです。

真の知識とはどうしたら神のご意志を理解できるかという知識であり、あらゆる識別力とは、正しい行動を取ることが出来る力を表します。神にどう従っていくかを理解し、それゆえに人々とどう接するべきかもっともっと愛に根ざしていけるように祈っています。

ピリピの教会はパーフェクトではありませんでした。パウロが喜びと一致を念頭において語るのには理由があります。それは教会には不一致がありました。ピリピがローマの都市として安寧し、神以外に喜びのみなもとを求めていたのです。

(2)10-11 節

上述のように愛が深まるなら、結果として、「真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。またあなたがたが、キリストの日には純真で非難されるところがなく、 イエス・キリストによって与えられた義の実に満たされている者」となるように祈るのです。

真にすぐれたものを見分ける、とは、何が大事なことであるか見分けることです。教会の中に偽りの教えもあったでしょう。パウロが後に「それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。(3:8)」と書くように、偽りの教えや誤った生き方に陥らないようにと祈るのです。

パウロがこの書の冒頭で、ピリピの「聖者」と呼びかけています。それは失われた世界においても神の栄光を光らせる存在が彼らのアイデンティティーであることを思い出させているのです。聖者として生きることで、キリストの日には純真で非難されない者となるのです。誰からも非難を受けない生き方は「神の御栄えと誉れ」を現すのです。これは神が与える義の実です。

ピリピと私

ピリピの街は大昔のローマ帝国の都市ですが、現代の私たちの住む街とよく似ていませんか?私たちの教会にも似ていませんか?パウロはこの書で私たちに励ましを与え、導きを授けてくれます。