先週に引き続き、Eugene Petersonの講演から想わされたことをシェアします。「復活」が現代クリスチャンが「私は、生ける者の地で、主の御前を歩き進もう(詩篇116篇9節)」とするときにどれほどまでに大切であるか、ピーターソン先生は語りました。今回はその2、「復活の食事」の側面からです。
食生活は生きる上で必要不可欠ですが、単に生息するためのみならず、人と関わりあう、と言う点でも必要不可欠です。
実は、クリスチャンとして生きていくことにおいても、この日常生活のありきたりな食生活はキリストの「復活」に関わる重要な生活の一部です。日常生活から神様が切り離され始めると、どんなに活力溢れたクリスチャンも次第に生活から神様への思いが薄れ、力を失うのです。残念ながら、日曜はクリスチャンとしての振る舞いをするが、その他の日は無神論者のように生きるクリスチャンが多いのも否めない現実です。
ピーターソン先生はイエスの「復活」こそクリスチャンの生涯の信仰の歩みに欠かせない基盤である、と説くのです。
さて、復活の主が食事をした記事が2箇所出てきます。ルカの福音書24章と、ヨハネの福音書21章です。ルカの記事では、2人のキリストの弟子、クレオパとその同伴者がエルサレムからエマオの町に向かって歩むところから始まります。ヨハネの福音書では、ペテロを始めとした弟子たちがイエスの言葉通りガリラヤでイエスを待っているところから始まります。ぜひ聖書を開いてその箇所をゆっくり読んでみてはいかがでしょうか。
ルカによる福音書24章13〜35節、及びヨハネによる福音書21章1〜14節 (リンクをクリックすると参照場所へジャンプします。別のタブが開きます。)
以前にブログでもシェアしましたが、聖書の記事をゆっくりと、書かれている事実や事柄に注意を向けて、イマジネーションを働かせて読んでみるのはとても効果的な読み方です。
ルカの記事を読む際に、クレオパとその同伴者に成り代わってみてはいかがでしょうか。自分がユダヤ人で、毎年必ずエルサレムへ都登りし、宮で礼拝し、過越の祭りを祝うのです。何万という信者が集まり、大賑わいです。そんな中、今年はいつもと違いました。自分が付き従っていたイエスがなんと過越の祭の最中に逮捕され、血みどろになりながら十字架を背負い、ドクロと名のついた死刑場で十字架刑につけられたのです。
大騒ぎのエルサレムから自分の家に向かって7マイル(12キロ程度)を歩み、クレオパと二人でまさしくこのイエスについて話したのでは無いでしょうか?片道3時間ほどの距離は長かったでしょうか、短かったでしょうか。途中から現れたイエス(彼らは気づきませんでした)が聖書からメシアについて語り、心が燃やされた、と書かれています。マリアや他の女性たちが、また一部の弟子たちがイエスを見た、と言っている噂をどう思ったことでしょう。
旅を終え、自宅に着いたクレオパ達はイエスを招き入れます。食事を共にどうぞ、とお迎えしたのでした。
ヨハネの福音書では、弟子たちがガリラヤ湖畔に集まり(イエスからの指示だ、とマリア達から聞いて従ったのです)、ペテロは数人の弟子達と勝手知ったる漁に出ます。魚は夜に釣れるので夜通し、暗い中を漁をしたことでしょう。イエス様はそんな日常の、いつもの仕事の中に現れたのです。とうとう何も釣れなかったペテロ達に「船の右側に網を下ろしなさい」とイエスは言います。するとおびただしい数の魚が取れた、とあります。聖書は153匹だったと書いてあります。
これらの記事からピーターソン先生が語るのは、いずれの場合も、食事はイエスが主人役を担った、ということが注目できることだ、と言います。
「復活」は自分達がどうこうしてコントロール出来るものではありません。しかし私たちは「復活」に参加することが可能です。それはイエスが招き入れてくれて、リードしてくれるからです。いずれの記事においても最初はイエスのことをイエスだと分からなかったのに、イエスが食事の主人をする、ということを通して、イエスをイエスだとわかった、というのです。
私たちは自分の信仰の成長を自分でつかさどることは出来ないのです。自分の気分に合わせて成長することは不可能です。しかし、この復活の信仰に積極的に参加し、自分が飛び込むことはできるのです。
最後に、この食事、あるいは福音書の他の食事の記事から、教会が始めたある重要な聖礼典があります。それは聖餐式です。聖餐式はキリストの十字架を覚え、彼の再臨を待ち望み、信者が共に預かる大事な記念式典です。パウロは、こう語りました。
「私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、 感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。」
コリント第一の手紙11章23〜26節
この部分が後に聖礼典として聖餐式、と呼ばれる基盤になったのです。
福音書の中の、食事の記事で、5千人に食事を与えた時、4千人に食事を与え時、最後の晩餐、そしてエマオでの食事、その際に出てくる4つの動詞に注目したいです。それは、「取り」「感謝を捧げ」「裂き」、「与える」という4つの動詞です。
パウロが語る聖餐式、パンの記事でその単語が使われていますね。「与える」とはでてきませんが、文脈から「行う」というのがパンを分散することを指すのは異議がないところでしょう。
この4つの動詞について、ピーターソン先生がこう締めくくります。
- イエスが「取る」のは、すべて私たちが彼のところに持ってゆくものです。sれは私達自身も含まれます。
- イエスは私達の捧げるもの、自分自身を天に向かい、天の父なる神様に対して「感謝を捧げます」。
- イエスは私達の中になる自己中心、自己欺瞞、神なく生きる自給自足的な信仰、そういうものをすべて十字架において砕くのです。私たちは「裂かれる」のです。
- イエスは私達に新しいいのちを「与え」てくださいます。それは向上した人生ではなく、上手になった信仰の持ち方でもなく、全く新しくされた、造りかえられた、イエスの十字架によって交換されたいのちなのです。
復活の主はこのいのちを与えてくださいます。これがキリストは私のうちにおられる、ということなんです。「復活の食事」とは、このいのちにつながる重要な、しかし日常に起こる生活の一部なのです。
ルカによる福音書24章13〜35節
13 ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエオマという村に行く途中であった。
14 そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。
15 話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。
16 しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。
17 イエスは彼らに言われた。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。
18 クレオパというほうが答えて言った。「エルサレムにいながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけがしらなかったのですか。」
19 イエスが、「どんな事ですか」と聞かれると、ふたりは答えた。「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。
20 それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。
21 しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、
22 また仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、
23 イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。
24 それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです。
25 するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。
26 キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」
27 それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに解き明かされた。
28 彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。
29 それで、彼らが、「いっしょにお泊りください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中に入られた。
30 彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。
31 それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。
32 そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」
33 すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻ってみると、十一使徒とその仲間が集まって、
34 「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現された」と言っていた。
35 彼らも、道であったいろいろなことや、パンを裂かれたときにイエスだとわかった次第を話した。
ルカによる福音書24章13〜35節
ヨハネによる福音書21章1〜14節
1 この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現された。その現された次第はこうであった。
2 シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた。
3 シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。
4 夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。
5 イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」
6 イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。
7 そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。
8 しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからである。
9 こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。
10 イエスは彼らに言われた。「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」
11 シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた、それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。
12 イエスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか」とあえて尋ねる者はいなかった。
13 イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。
14 イエスが、死人の中からよみがえってから、弟子たちにご自分を現されたのは、すでにこれで三度目である。
ヨハネの福音書21章1〜14節