ピリピ 2:12-18
12 そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい。13 神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。
14 すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい。15 それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、
16 いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。
そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます。17 たとい私が、あなたがたの信仰の供え物と礼拝とともに、注ぎの供え物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。18 あなたがたも同じように喜んでください。私といっしょに喜んでください。
そういうわけですから
聖書に「そういうわけですから」と書いてある時は必ずこれが何を指すのかに注意しなければなりません。ここではパウロはキリストの従順(2:8)を指しています。「キリストに倣うべきです、ですから」と説明をします。
パウロはすでに 1:27-30でへり下りについて語っています。そこでパウロが語ったことと今回の箇所でパウロが語る言葉には共通した表現や内容があります。つまり、今回の箇所は「キリストの福音にふさわしく生きること (1:27)」に密接に繋がっているのです。
キリストは「ご自身を無にして仕えるものの姿となった」のです。キリストに倣うならば、それはピリピの信徒にとって具体的にどういうことかをパウロは語ります。
良い働きを続けなさい (2:12–13)
従順が最も最初にあるべきことです。誰に対してでしょうか。パウロはおそらく自分がキリストに倣って従順になっているように、福音に預かる者として自分のような信仰への従順さを持っていて欲しいと励まします。お手本のパウロが一緒にいようと今いと、従順を持ち続けることがまず最初の一歩だと言っています。
次の12節と13節は表面的に見ると食い違っているように思えるでしょうか。確かにパッと読むと、自力で救いを得よ、でも全部神様のわざだよ、と書いてあるようで、じゃあどっちなんだろう?と首をかしげてもおかしくありません。しかし、パウロがそんな混乱した神学に基づいてピリピの信徒を困らせているとは考えられません。どうこの箇所を理解するべきでしょうか?
「自分の救いの達成」を従順に進める、ということはまず何を言っているのでしょうか。パウロは、自分の力で救いを得るために良い働きを遂行せよ、と言っているのではありません。
12節の「恐れおののいて」は神のみ前に畏敬の念を持って立つことを指します。まず神様ありき、です。
次に「救い」とは神がキリストにおいて自分を罪から救い出してくれた信仰のある一点の時を指すと同時に、聖書が書いている終わりの日に、神がキリストに信頼し信じた物たちをあるものたちを招き入れてくれる最終的な救いのことも指します。ここでは後者でしょう。一貫してピリピの手紙では信仰を歩み続けることについて書かれています。つまり、信仰を持っている信徒たちがすでに与えられている罪からの「救い」を生きて、最終的にイエスと共に生きる究極の救いに至るまでどうするべきかを書いているという背景を考え得ると、ここでの「救い」はパウロがローマ書5:9などで語る「義とされる」ことというようり、ペテロがペテロ第二 1:11 「このようにあなたがたは、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国に入る恵みを豊かに加えられるのです。」と語るような永遠の御国に入る恵みを指していると考えられます。
そしてこの救いを「達成する」という言葉ですが、語源は「カテルガゼステ」というギリシャ語です。「成し遂げる」という意味があります。これは「救い(=義とされる)」を手にいれる、ということよりも、生き抜く、自分の物とするという意味があると考えられます。英語では「ワークアウト」という単語で訳されています。すなわち、トレーニングにより地道に力をつけて、今訓練・鍛錬していることを身につける、という意味です。
すると、13節の全ては神の思いのなせるわざである、という言葉と繋がります。積極的に(最終的な)救いの日をめがけて今を神のみ前に恐れつつ福音にふさわしく生き抜く、ということを12〜13節でパウロは励ましの言葉をかけているのです。
Thielmanはこうまとめています。(和文抄訳はブログ筆者)
ピリピの信徒たちは彼らの救いを最後の日に与えられる救いを待ち望む者としてふさわしい真剣さを持ってして生き抜くべきなのです。しかし、常に心に留めねばならないのは、最後の日に救いを受けるに至るプロセスはそれを始めることも完成させることも自分たちに任されているのではないことです。全て最初から最後まで神のみわざなのです。
They should work out their salvation with a seriousness appropriate to those who look forward to salvation on the final day, but they should remember at all times that the whole process leading to their acquittal on that Day is theirs neither to initiate nor to complete. It is God’s from first to last (cf. 1:6).4
Thielman, Frank S.. Philippians (The NIV Application Commentary Book 11) (pp. 138-139).
曲がった世にある光になる (2:14–16a)
次に、パウロはピリピの信徒に従順に行ってもらいたいこととして記しているのは、「つぶやかず、疑わない」ことです。不平を言わず、ああだこうだと口答えしてはならない、ということです。つまり皆が一致することが、道を誤って暗闇にあるこの世の中においての光になるからだ、といいます。
「曲がった邪悪な世の中」という言葉は旧約聖書のモーセが道を外したイスラエル人に対してとりなした神の言葉とエコーしています。
「主は岩。主のみわざは完全。まことに、主の道はみな正しい。主は真実の神で、偽りがなく、正しい方、直ぐな方である。 主をそこない、その汚れで、主の子らではない、よこしまで曲がった世代。」申命記 32:4-5
ピリピの信徒は、一致して福音にふさわしく生き、のちの救いの恵みに預かる者として信仰を生き抜くなら、彼らこそ暗い闇の、叛逆する世代の中にある明るい光になる、と語ります。
注ぎの供え物となる喜び (2:16b–18)
ピリピの信徒が一致し、福音にふさわしく生きることは、この世においての光となるばかりか、パウロの使命を全うすることにおいて彼にとっての喜びとなると書いています。共に福音にあって戦う時に、パウロは自分が供え物として捧げられても本望であるというのです。それが喜びだから、というのです。
「注ぎの供え物」はパウロが後にテモテに書いた手紙で自分の死に臨んだ際に使った言葉でもあります。
「私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現れを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。」テモテ第二 4:6-8
パウロにとっての喜びはピリピの信徒と共に信仰にあって福音にふさわしく生き、救いの喜びの日を待ち望み、救いを受ける物にふさわしい、信仰を生き抜くことで、そして互いに一致することによって暗闇に光となり神に栄光をもたらすことだったのです。それが死を、注ぎの供え物として注がれても、それが喜びであり、その喜びをピリピの信徒と分かち合いたいと願うのです。
