主の祈り (マタイ6:9-13)
天にまします我らの父よ。
ねがわくは御名〔みな〕をあがめさせたまえ。
御国〔みくに〕を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧〔かて〕を、今日〔きょう〕も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず、悪より救いいだしたまえ。
国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。アーメン。 (文語訳・聖歌裏表紙)Our Father which art in heaven, Hallowed be thy name.
Thy kingdom come, Thy will be done in earth, as it is in heaven.
Give us this day our daily bread.
And forgive us our debts, as we forgive our debtors.
And lead us not into temptation, but deliver us from evil
For thine is the kingdom, and the power, and the glory, for ever. Amen. (King James Version)
私の通う教会では新年の説教シリーズは「私達に祈りを教えて下さい」と題して、主の祈りから(マタイ6章9~13)学び始めました。
新年なので、今年こそはしっかり祈ろう、と心に決めて臨んでいる方もおおいでしょうね!素晴らしいと思います。イエス様も弟子たちが教えて下さい、(ルカ11章)と言うのを聞いて本当に心喜ばせたことではないでしょうか!
「精通しているがゆえの危険性」
さて、主の祈りについては、数々の学べるポイントがあります。これまで多くの神学者、説教者、牧師、教師たちが主の祈りを解き明かして来ています。主の祈りならもう知ってるし、暗記したし、いまさら主の祈りから、何かスペシャルなことを教わることなんてないんじゃない、と思ったりしませんか?
ニューヨークのティム ケラー 牧師は、彼が書いた本* の中で、「精通していることの危険性」の段落で、主の祈りはどんな言葉にもまさっている言葉で構成されていて、祈りの豊かな源泉にありつく鍵のようなものであるが、惜しむらく、「みんなが良く知りすぎていて」肝心の源にたどりつけていない、というのです。
これは、おそらく教会で多年にわたり礼拝や様々な祈りの会で繰り返され、何も考えなくても口について出てくる、ことが危険性の一部だという事でしょう。何か、新鮮でなくなってしまっているようです。本当は、天地万物を創造され、今もこの天地を支えておられるお方に「父ちゃん」と語り掛ける様なものですから、大事件な行動なはずなのですが。
似たようなチャレンジを説教中に牧師からされました。説教を良く聞き、考えを巡らせて、行動に反映されたい、と願い祈りました。その時に想わされたことをシェアします。(実際の説教内容からはすでに脱線してますが。)
「我らの」
北米では何よりも「個」が優先されます。特に現代では個人のアイデンティティを自分で築き、人は人、自分は自分、という考えが様々な形となって文化を作っていると思います。主の祈りはイエス様が教えてくれた祈りの方法であり、型であり、道筋ですが、現代の北米で主流の個人主義な文化に逆らっているものです。イエス様はここで、「我ら・私達」というコミュニティーが祈りの主役だと言うのです。
確かに、主の祈りの文脈と背景は、「隠れたところで祈る」ことをイエス様は教えていますから、祈りの行動は個人的だと言えます。しかし、コミュニティー無しでは、祈りの目的。。。。神様と益々近くなる、関係を深める。。。ことは意味がなくなるのではないでしょうか。祈りは何かを得る、勝ち取る、願い事をかなえてもらう、という要素は確かにありますが、究極的には神様をよりよく知り、関係を深めることです。
一番大事な律法は何か、と問われてイエス様はこう答えました。
「そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』 これがたいせつな第一の戒めです。 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」 マタイ22章37~40節
第一の戒めが第二につながっている、そしてその二つが全てだ、というのです。まさしく十字架の形、縦軸(神様とのつながり)と横軸(人のつながり)ですね。善きサマリヤ人が傷ついた旅人を助けたように、私たちの信仰が行動となって人とのつながりを深める、ひいては、神様から託された「和解のつとめ(コリント第二5章18節)」を全うすることが御心だと想わされます。私たちが「キリストの使節(同20節)」になっているのです。
さらに、「我らの」から想わされるのは、十字架の前には自分一人じゃない、ということです。苦しい、険しく、難しい、激しい人生の時期にさしかかっていると、周りは見えにくくなります。十字架の周りには自分一人ぼっちのように思えます。 しかし現実は、イエスの十字架の前に多くの仲間がいます。チーム・ジーザスがわんさかイエス様を取り巻いているのです。パウロはこんな風に表現しています。
「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いている。。。」へブル人への手紙12章1a
集まる者すべてと共に、「我らの」父に祈りましょう!
*”Prayer, Experiencing Awe and Intimacy with God” の第8章 “The Prayer of Prayers” Tim Keller著
主の祈りシリーズは以下のリンクからどうぞ
- 主の祈り01 「我らの父よ」
- 主の祈り02 「日用の糧」
- 主の祈り03 「試み」