待降節をどうお過ごしですか?キリストの生誕を待つこの時期ですが、現代クリスチャンにはキリストの再臨を待ち望むことを想わされる時期でもあります。

11月から12月中旬の六週間でまで、教会では立て続けに5人のお葬式がありました。いずれの方もご本人かご家族が教会にいらしていた方達です。教会の牧師と共に実務面のお世話とコーディネートに関わりました。

ある未信者のご家族とお話をしていたときに、お葬式にはどんな服装がいいのか、と言う質問を受けました。「セレブレーション・オブ・ライフ」(人生をお祝いする)と言う言葉から明るい服装をするのがいいのか、それとも通常通りの黒っぽい服がいいのか、と言う質問でした。お葬式を「セレブレーション」と呼ぶのはおそらく最近のことでしょう。大抵は葬儀屋さんが一緒に関わるお葬式や、日をあらためて行う記念会・偲ぶ会がよくあるパターンですから。

現代の文化では「死」はタブーですね。だから「死んだ」ことにフォーカスを置くのではなく、できるだけポジティブに生きていることに目を向けようと言うことなのでしょう。これは「死」がファイナル、つまりこれが行き止まりのように最終地点であるなら頷けます。

どのように取り繕っても、気持ちを切り替えてみようとしても、どのお葬式も家族や友人たちにとって故人は大きな存在でそれを失った現実は悲しく、また穴が空いたように感じられるのです。どうやって人生を歩んで行けばいいのでしょうか? 鍵はキリストにあります。

キリストを信ずるものにとって、死は最後ではありませんね。神と共に永遠に生きるいのちが与えられているのですから。そしてこれが私たちに希望をもたらすのです。悲しみの中にも希望がはっきりと存在しているのです。それが悲嘆に暮れて絶望する、キリスト無しの生き方と違うところです。

指輪物語の最後にこのようなやりとりがサムとガンドルフの間に出てきます。サムは偉大な魔法使いのガンドルフは敵に倒され殺されてしまったと思っていました。しかしガンドルフは生きていたのです。

サムは叫んで言った。「死んじゃったのかと思っていたよ!」
ガンドルフは「わしもそう思ったのだがね!」と答えた。
サムは言った。「悲しいことは全て逆に戻るのかな?」

指輪物語 王の帰還

ヨハネの黙示録を読むとわかるのは、来る天の御国では永遠のいのち、神の栄光に満ちており、混沌・混乱はなく、涙も全て拭い去られるのです。これが現実なのです。まさしく、全て元通りになるのです。

キリストの生涯、その死、そして蘇りによって、クリスチャンにとって、全ての悲しいことは元通り悲しく無くなるのです。ですからお葬式でも、逆境の苦しみの中で嘆き悲しんでも、そこには一筋の希望の光が差しています。そこにキリストにある喜びがあります。

「「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」

ヨハネ 8:12