man crying on field

先日二人目の孫娘が生まれました。教会のスタッフや友達の間でも赤ちゃんブームがおきています。みんな病気も怪我もなく、健康に育ってイエスを愛する子たちになってほしいと願います。

そんな中、ある牧師が説教の中で神の癒しについて触れました。私も以前にルカのシリーズで学んだ箇所で、二人の「娘」が癒される箇所でした。十二年の間、長血の患いを持ち、社会から「汚れている」と隔絶されていた女性がイエスの着物のすそをつかみ即座に癒されました。またユダヤの会堂のリーダー、ヤイロの12歳になる娘が危篤状態でした。イエスが到着した時は娘が死んだとされて、ご丁寧にもプロの「泣き屋」も悲しみのシーンを作っていました。しかし、この娘は「タリタ・クミ(少女よ起きなさい)」のイエスの言葉でいのちをもち、癒されたのです。ルカの福音書に流れるイエスは誰か、というテーマの一環です。いのちはイエスにあり、イエスに出会うものたちにイエスから与えられる一つのテーマでもあります。ルカこの点を具体例を挙げ、細やかに説明しています。同時に、イエスに出逢いながらイエスを見逃し、見失うものたちへの警告もしています。

ただ、この説教はそこで終わったのではありません。牧師は癒しは「しるし」だと言います。何のしるしでしょうか?それは来る完全なる癒しと救いの時を示すしるしです。

なぜこんなことを牧師は言うのでしょうか?彼は続けて語ります。

イエスの癒しのストーリーは素晴らしいです。今日も神は癒されます。でも、今この時を生きる私たちには一つのテンションがあります。それは、癒しは祈り求める全ての人にその場で与えられるとは限らない、ということです。あなたも自分の或いは自分の大切な人の癒しを祈り求めて来ていても癒しが与えられていないかもしれません。牧師が説明したいのは、「しるし」が指し示すキリストの降臨と新天地はまだ未来にあり現在は成就していないということです。

その牧師の3歳になるお子さんとのやりとりを続けて語ってくれました。そのお子さんは難病を抱えています。生まれてからこれまで何度となく病院通いをしています。原因は現時点では不明だそうです。原因がわからないと対症療法しかできませんから、いつでも何か健康上の問題が少しでも起きたら病院に行かねばなりません。これまでも簡単なものから体に負担のかかるものまで、様々な検査がされています。

あるときこのお子さんが、ピクチャーバイブルに出てきた、イエスの手足と脇腹に傷がある絵を見て、「パパ、これ何?」と尋ねたそうです。それはジーザスの「イタイイタイ」だよ、と教えてあげると、「僕と同じ?」と自分の腕の点滴やら検査やらの注射痕を指差したそうです。「そう、ジーザスは。。ちゃんのイタイイタイのことをよくわかってくれてるよ。」と答えたそうです。

「イタイイタイ」はイエスとのより深い関係へと導き入れるものではないか、と牧師は語ります。

一人一人の人生や出来事はそれぞれその人ごとに受け止め方が違います。その人の置かれている状況も他の人とは違うでしょう。神は私たちを方程式に当てはめたいとは思わないのです。ですから「より深い交わり」に至る道は様々です。短い人も長い人も、ずっと苦しむ人もいるでしょう。

ただ、間違いなくイエスが語ってくれているのは、「私のところに来なさい」というインビテーションです。イエスを信頼し、その一歩を進むとき、恵みの神はその人にぴったりのくびきを与え、休息を与えると約束されています。

イエスは一体何者なのでこんな約束をすることが出来るのしょうか?それはイエスが私たちのことを誰よりも分かってくれているからで、彼の十字架と罪と死にたいする勝利、そして全てに君臨されているお方だからです。

神は偉大すぎて自分のことは分かってくれない、というのは半分間違っています。神は偉大です。しかしイエスは私たちのことを体験を通してわかってくれているのです。

私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

ヘブル人への手紙 4:15-16