私の尊敬するM牧師がある時私にこう言いました。「聖霊は必ず一つの方向に導きます。決していくつもの方向を示して混乱を起すことはありません。」これは教会の指導者達の会議で何か重要なことを決める際には必ず全員一致することを決め事にしている、と教えてくれた時に語ったことです。多数決で導きに従うのではなく、リーダーたちが全員が神の導きに耳を傾け、全員が聖霊の示している道に賛同する、ということだ、と説明してくれた時の話しです。もちろん時には誰か一人だけどうしても賛同できない、と言うこともあったそうです。そんな時は決議せずに持ち帰り、一人一人が祈りもとめる時間をもっと持つようにしたそうです。それについてはまた別の機会でシェアすることにします。

今回は聖霊は確かに一つの方向に(もちろん一人の神様ですから)導いてくれた時のことをシェアします。今年(2024年)の抱負とビジョンを考え、それを先月のウエブサイトで紹介しました。「神の臨在を生きる」ことが想い浮かび、それを祈って考えているときのことです。教会のスタッフ祈祷会でジョン牧師が詩篇23篇からレクチオ・ディヴィナ、聖書を読み御心を聴く時をリードしてくれました。まず全体を一度読み、次に彼は一節一節丁寧に、祈りのポイントを語りつつ読み進めて行きました。せっかく彼は細かく説明していたのですが、私のほうは最初に読んだ時に6節に心が留まってしまったので、申し訳なかったですが、自分の世界に入ってしまい、6節からの言葉に耳を傾けることにしました。

「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。 」

詩篇23篇6節

詩篇23篇は有名な詩篇です。著者はダビデです。彼は羊飼いでした。その経験から、彼が主を想う時、彼には主は羊飼いで、自分は羊であると感じたのでしょう。そして5節、6節が彼の羊としての生き方、豊ないのちを表しています。

私に語りかけてきたのは「追ってくる」と言う表現でした。

アブラハムの説教シリーズから間もなかったこともあるでしょう。アブラハムの信仰の歩みは常に神にまず聞き従うか、そして最後まで従い続けるか、と言うことが大きなテーマでした。しかし、言ってみればフォーカスは実はアブラハムにあるのではなく、まず神がアブラハムに約束を与え、神がアブラハムに契約を神の責任の元に与えたということにあるのです。私たち信仰の「羊たち」が追うのではなく、神が追ってくださるのです。それに応答するか否か、が鍵です。

新改訳で「いつくしみと恵み」とありますがこれは神の「最善の御心と一方的な愛」と考えられます。神は常に最善の御心を働かせてくださるのです。自分の思いではなく、神の御心は何かを探り求めるべきです。そしてどんなにしくじろうと、イエスの十字架は愛を持って迫ってくるのです。

だから、自分が主の家に住まえるのです。そこにこそ豊ないのちと生き甲斐があるからです。

このような想いをメモして考えていると、「あれ、これって来年の(今年の)ビジョンじゃん」、と想わされました。主の臨在に生きるのは、神の御心を探り、それに応答し、そこにこそ生きる喜びも生まれる訳です。ああやっぱり神様はこれを心に持って過ごしていけよ、と言ってらっしゃるんだ、と確信したわけです。