ティム・ケラー師の「The Songs of Jesus 」から想わされたことをシェアします。

この本は毎日詩篇を取り上げてそこから学び、祈れるデボーションです。1月24日は詩篇17篇の1〜9節です。こう書かれています。

「主よ。聞いてください。正しい訴えを。耳に留めてください、私の叫びを。耳に入れてください、欺きのくちびるからでない私の祈りを。私のためのさばきが御前から出て、公正に御目が注がれますように。 あなたは私の心を調べ、夜、私を問いただされました。あなたは私をためされましたが、何も見つけ出されません。私は、口のあやまちをしまいと心がけました。人としての行いについては、あなたのくちびるのことばによりました。私は無法な者の道を避けました。私の歩みは、あなたの道を堅く守り、私の足はよろけませんでした。神よ。私はあなたを呼び求めました。あなたは私に答えてくださるからです。耳を傾けて、私の申し上げることを聞いてください。あなたの奇しい恵みをお示しください。立ち向かう者から身を避けて右の手に来る者を救う方。私を、ひとみのように見守り、御翼の陰に私をかくまってください。私を襲う悪者から。私を取り巻く貪欲な敵から。(詩篇17篇1〜9)」

ケラー師はこう書きます。

清い良心

「ダビデは自分は罪のない人間だ、と言っているわけではありません。彼は腐敗した指導者ではない、と言っているのです。彼は民をあざむかず(3節)、賄賂を取りません。(4節)ぬれぎぬを着せられても、その良心は清いのです。どうしたら清い良心を常に保てるでしょうか?その答えは2つの部分があります。正しいことをしてください。もししくじったら、すぐに悔い改めて下さい。あなたは神様のひとみのような存在であることを忘れないで下さい。キリストにあって、驚くべきことですが、神様は私たちを完全な者として見ています。(ピリピ3:9−10) ですから濡れ衣を着せられても、失敗をして立ち上がろうとするときに、堂々と歩むことが出来るのです。

“A CLEAR CONSCIENCE. David is not claiming to be sinless as a human; he is denying that he is corrupt as a ruler. He has not lied to his people (verse 3) or taken bribes (verse 4). He is being falsely accused but his conscience is clear. How can we always keep a clear conscience? There are two parts to it. Do the right thing. But when you don’t, immediately repent, knowing that you are “the apple of [God’s] eye.” In Christ, astonishingly, God does indeed see us as perfect (Philippians 3:9–10). So whether you are falsely accused or fallen and recovered, you can walk with your head up.

 

かたくなになる心と態度

同じ朝に読んだ別の聖書の箇所は、創世記の42章でした。父ヤコブにえこひいきされて育ったヨセフは、他の兄弟たちの逆鱗に触れて、ついには奴隷として売られ、ヤコブにはヨセフは死んだ、と伝えられていました。そのヨセフはなんとエジプトの地で王の右腕として活躍していたのです。飢饉が起きたとき、ヤコブは食料の備蓄があるエジプトに息子たちを送り、食料を買い取らせます。最終的にはヨセフは自分の父、兄弟たち、弟ベニヤミン、と涙の再会となるのですが、その幕開けとも言うべきシーンが42章です。 ヨセフは自分の身柄を隠し、兄弟たちに弟のベニヤミンを連れてくるように命令します。その命令を受けた兄弟たちは父に報告しますが、ヤコブの応答は頑なでした。

36 父ヤコブは彼らに言った。「あなたがたはもう、私に子を失わせている。ヨセフはいなくなった。シメオンもいなくなった。そして今、ベニヤミンをも取ろうとしている。こんなことがみな、私にふりかかって来るのだ。」
37 ルベンは父にこう言った。「もし私が彼をあなたのもとに連れて帰らなかったら、私のふたりの子を殺してもかまいません。彼を私の手に任せてください。私はきっと彼をあなたのもとに連れ戻します。」
38 しかしヤコブは言った。「私の子は、あなたがたといっしょには行かせない。彼の兄は死に、彼だけが残っているのだから。あなたがたの行く道中で、もし彼にわざわいがふりかかれば、あなたがたは、このしらが頭の私を、悲しみながらよみに下らせることになるのだ。」

私はここを読んでちょっと怖くなりました。というのは、神様と近くを歩んでいたヤコブですが、奥さんが死に、ヨセフも行方不明(死んだと思っていた)、だんだんと心が頑なになり、息子たちの言葉にも耳を貸さない、単なる頑固親父になっていたからです。 しかも、息子たちに向かって、自分の子供はヨセフとベニヤミンだけだというのです。いいかえれば、他の兄弟たちはどうでも良い、と面と向かって言っているようなものでした。

そこでケラー師のメッセージが頭をよぎったのです。そうか、ヤコブの心が固くなったのは、悲しみ、落胆、疲れ、そういった人生の毎日の繰り返しにあって、実は罪が彼の心に蓄積されていったのではないか、と考えました。ある日突然不信仰に陥った、というよりも、じわじわと、少しづつ神様から離れて行ったんだ、と思いました。

自分もそうなったらどうしよう、と漠然と怖くなったんです。気づかないうちに頑固になってゆき、そのうちみんなから嫌がられる頑固爺さんになったら、なんてドキドキしました。 しかし、ケラー師のいう、「正しいことを行う。しくじったら悔い改められる。なぜなら、キリストにあって自分はとめどなく愛されているから。」を日々繰り返すのが大事だということを顧みることが出来ました。

ちょっと厳密には文脈(詩篇17)通りでは解釈と生活への適用な感じですが、自分には大事に思えました。

 

へブル人への手紙12章1節後半~2節前半

「。。。私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。 信仰の創始者であり、完成者でイエスから目を離さないでいなさい。。。。」