「さあ祈りましょう」という言葉は教会では良く聞くものです。するとあなたはどうしますか?目をつぶって、静かに手を組んで、じっと神経を祈りの言葉に集中させますね。私もたいていそうします。

ある時一人のクリスチャン姉妹がこう言いました。「私は子供のために祈る時はその子を手に取るようにして祈るの。」祈りにビジュアルな動作を入れているんだ、と感心しました。まあ自分はどっちかっていうと確かに手を振ったり拳を握りしめたりなどしますが、具体的にそこにはあまり意味を持たせていません。例えば賛美だったら歌詞に合わせて手をあげたり広げたりすることはありますが、祈りの時は自分の祈りの言葉をどう繋げるのかとか、人の祈っている言葉に神経を集中していて動作にまでそれこそ手はまわりません。

しかし、つい先日礼拝の賛美の時のことです。私はバンドの一員でステージにいましたが、リーダーがある曲のイントロの時に、会衆に、「これから私が合図したら一斉に神様に感謝のことばを叫びましょう。その時ぜひ手を大きく広げて、腕を上げて大きな声で感謝するんです。」と告げました。全く打ち合わせになかったのですが、そのリーダーは単に聖霊の導きに素直に従ったのです。この時もそうだったのです。

私も楽器を抱えながらも腕を伸ばし手を思いっきり広げて最初に心に浮かんだ感謝のことばを叫びました。驚きましたが日本語で叫びました。周りに日本の人がいなければ大抵の場合私の祈りは英語ですがこの時は日本語でした。一言叫んだ後、感極まって言葉にならなくなりました。目に涙が溜まっていました。

祈る時に体を動かすことも何か静かに祈ることと同じように重要です。私たちの体は聖霊の宮であり、キリストのからだの一部ですから動きながら祈ることも然りなのです。詩篇63篇1節に「神よ。あなたは私の神。私はあなたを切に求めます。水のない、砂漠の衰え果てた地で、私のたましいは、あなたに渇き、私の身も、あなたを慕って気を失うばかりです。」

「あなたを慕って気を失う」というのはそれくらい神様のことを慕い、願い、切望する様子です。そんな心持ちを祈る時は静かに座ったり、ひざまずくよりも、オアシスに向かって手を伸ばし、少しでもイエスに近づくことを心の目で見て必死に体を動かす、そんな祈りもありなのではないかと想わされました。