私の勤め先の教会には牧師・専門職・サポートスタッフ・インターン、長老達全て合わせると50人くらいになります。毎年9月が私たちの教会の年度始めです。それに合わせて、全てのスタッフと長老達はポスターサイズにプリントされた誓約書に合意・同意の署名をします。全部で10項目の約束事ですが、教会に就職する際に、長老に選出される際に署名するものと同じなので、内容はもう誰もが知っているものですが、毎年年初めに、共に読み、その背後の理由を考え、その上で約束の署名をします。署名された誓約書のポスターはフロントオフィスに掲げられます。
教会のスタッフはその誓約書の内容を煮詰めたというか、エッセンスである以下の6項目についてさらに掘り下げて学んでいます。
- We always honour 常に敬意を表す
- We equip servant leaders しもべとして仕えるリーダーを養成する
- We pursue humility へりくだりを追い求める
- We make it better 改善を心がける
- We embrace healthy rhythms 健全なリズムを大事にする
- We show scandalous grace 人があきれてしまうような恵みを示す
先日、ブラッド牧師がへりくだり、の項目についての学びをリードしてくれました。その中で想わされたことをシェアします。
へりくだりの定義(原文:ブラッド牧師 抄訳:筆者)
「私心無く、人からの感銘を求めず、自分より他の人を大事に考え、他の人が心にかけることを純粋に気にかけることを意味し、究極的にそして最も完全なる形で表されるのがイエスキリストの人物において、そして彼の働きにおいてである。
A selfless, lack of concern for impressing, that thinks of others as better than ourselves and is genuinely concerned with what concerns the other; which is ultimately and most fully expressed in the person and work of Christ.』
Pastor Brad Strelau
対照
パウロがキリストのへりくだりについて語った有名な箇所が聖書にあります。(ピリピ2章)当時の世界情勢はというと、ローマが権勢を誇り、ローマ帝国として皇帝は自分を「神」呼ばわりしていたのです。パックス・ロマーナ(ローマの平和)という言葉で表されるように、ローマに信頼を寄せれば、その力によって安心と平和が与えられる、という時代だったのです。しかし、聖書は「小羊」の道を教えるのです。それはヴィア・ドラローサ(悲しみの道)を通る十字架の道です。
現代もご多聞にもれません。現代社会は地位の高いこと、権力を持つことがすなわち重要で、権威によって物事は動くという考えに基づいています。人々はそれを嫌いますが、同時に自分を守るためには少しでも権力・力を身につけそれに対抗しようとするのです。
数年前のことですが、デビッド牧師がこの絵を使って、本当の力というのは、クリスチャンにとっての力というのはこの絵に出てくるおじいちゃんのように、孫に教えてあげる、力づけてあげる、ことなんじゃないかな、と学びをしたのです。それ以来この絵は私のコンピューターのデスクトップに常に出ている、お気に入りの絵です。

神様が語る
神様は語られたのです。単に私に対して「へりくだり」のレッスンをして、それで私の知識がへりくだりについて正確に身につくことが神様の目的では到底ありません。個人的にもっと深く私が神様に繋がり、神様との関係が強められること、それが神様の求めるものです。信仰は正しい知識を増し加え、それに頼ることではなく、正しいお方を知り・信頼することですから。
ですから神様はへりくだりの学びを通して語られました。ブラッド牧師が学びをリードする2日前、私は教会の会堂建設委員会に出ていました。最終補正予算を会計項目を一つ一つ細かく検証し、最終予算提案書を作成するのがそのミーティングの目的でした。その中で、本当に$。。。ドルが与えられるのかどうか、という討議がなされたのです。委員の中には確信しているもの、また他にはもっと具体的な確証がないと不安だ、というものもいました。最終的には、神様に信頼することになったのです。
そしてその翌日でした。思いがけないところから多大な献金がなされたのです。教会のリーダーの誰も知らない方からでした。まるで、神様が、「君たちはいろいろ議論してたけれども、私が全てカバーしている。信頼しなさい。」と語ったと思いました。身震いがしたのです。頭では、神様は舞台裏で全てのことを働かせてくださっている、と分かっていても、なかなか心の底では納得できていなかったので、私はガツンと(神様ですから優しくですが)頭を叩かれたと思いました。
その次の日にブラッド牧師のへりくだりの学びがあったのでした。さらに、彼はその学びの中で次のイザヤの箇所を引いてまとめました。会堂建設委員としては本当にグサッときました。
「主はこう仰せられる。「天はわたしの王座、地はわたしの足台。わたしのために、あなたがたの建てる家は、いったいどこにあるのか。わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。2 これらすべては、わたしの手が造ったもの、これらすべてはわたしのものだ。―主の御告げ―わたしが目を留める者は、へりくだって心を砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。」
イザヤ書 66:1-2
日本人的にへりくだりを単に丁寧な気持ちとか謙譲の心とかで片付けられないのです。私の心は確かに砕かれ、私は神様の言葉におののいたことでした。